わたしはやめない

2025年03月16日

ルカによる福音書 13章31~35節

大斎節も第2主日になりました。福音書ではファリサイ派の人々がイエスに対して「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と忠告する場面が読まれます。イエスはそれに対して「わたしはやめない」と返答し、ファリサイ派の人々を退けています。

こういった場面に限りませんが「○○があなたのことをこう言っている」という言い方は人間の世界にはよくあります。「ただ単にそれを教える」というだけのこともままありますが、この場合はファリサイ派とイエスは似て非なる考え方を持っている相手で、競合相手でもあります。こういった場合は、ただ単に言いたかったというよりは別の意図があったと考えるべきでしょう。つまり「競合相手を遠ざけたい」という意図がある、ということです。

イエスは人気がありました。ファリサイ派の人々よりもサドカイ派の人々よりもです。ということは、イエスが活動をし続けると、自分たちの支援者が少なくなってしまう危険があると考えても不思議ではありません。また、王(ヘロデ王)と結びついているサドカイ派にとっては、人が集まることで暴動の危険=王権が覆される可能性があると考えても不思議ではありません。宗教上の主張はかなり違う二つの派が「イエスを排斥しよう」という一点において手を結ぶことが可能だということです。利害が一致しますからね。そして実際に手を結んだからこそ「ヘロデがあなたのことを殺そうとしています」という言い方になったのでしょう。宗教的な考え方についてはイエスとファリサイ派のほうが近いのですが皮肉なものです。

 「危険が迫っているのであろう」ということはイエスにもわかっていました。しかしイエスは「わたしはやめない」と自分の活動を続けることを宣言します。なぜならイエスにとって大切なのは「悪霊を追い出し、癒しを行うこと」です。ヘロデの王権を脅かすことも、人々の生活を律法に合わさせることにも興味がありません。自分に対して助けを求める声に応じて働き続けていただけだからです。ただ、イエス自身はそうであっても周囲は別です。どうしたって人が集まれば担ぎ出そうとする人だって出てくるでしょう。そしてイエス自身も覚悟はあったのだと思います。なぜなら「預言者がエルサレム以外で死ぬことはありえないからだ」と言っているからです。自分が悪霊を追い出し、癒しを行えば行うほど危険になるとわかっていたのです。それでもイエスはその歩みをやめることはありませんでした。イエス自身が自分をどのくらい「神の子」と意識していたのかはよくわかりません。それでも「エルサレムに行けば周りが守ってくれる」などの楽観的なイメージで活動をし続けていたわけではないでしょう。その道が十字架に続いていたことも知ったうえで、イエスは「わたしはやめない」と言ってのけるのです。

 教会は「宣教」という手段によって、世界を「神の国」に変えようとしています。この手段は誤解も受けやすく、遅々として進まない道でもあります。だから自分の身内であっても誤解されることもあるし、言い方が悪ければカルト教団のように思われることもよくあります。教会の中ですら、自分の考えていること、やろうとしていることが理解されず、おかしなことになることもあります。別に自分が全部が正しいとも思いませんが、それでも「やれることをやりつづけるだけ」しかできないのです。わたしたちの「宣教」とは「(主に倣って)生きること」です。そのことを「わたしはやめない」と、わたしたちは言い続けたいと思います。でも、なかなかそうできる人も多くありません。それでも、神さまがわたしたちを支えてくれることを信じ、歩み続けたいと思います。


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