わたしは漁に出る

2025年05月04日

ヨハネによる福音書 21章1~14節

 本日は復活節第3主日。福音書はヨハネからイエスが復活後、ティベリアス湖畔で7人の弟子たちに現れた様子です。「わたしは漁に出る」と宣言して向かうペトロに、他の弟子たちも従って船に乗りますが、さっぱり魚が捕れません。夜明け頃岸に戻るとイエスがいますが、最初弟子たちはわかりませんでした。しかし「船の右側に網を打ちなさい」と言われて網を打ったところ、おびただしい魚が捕れます。そこで弟子たちはイエスだと気づき、イエスと共に朝の食事をとります。

 ペトロはもともと漁師でした。ゼベダイの子たちも同様です。「わたしは漁に出る」とペトロが宣言し、船に乗ろうとしたのは「魚を獲る漁師に戻ろう」「元の生活に戻ろう」ということです。イエスが自分たちのところに来てくれたので、彼らは復活を信じ、地元であるガリラヤに戻ってくることができました。そこで彼らは「イエスのことを宣べ伝える」のではなく「魚を獲って生計を立てる」方を選ぼうとしていました。考えてみればペトロたちの人生にとって、イエスと過ごした時間は3年ほど。明らかに漁師として生活していたほうが長いのですから、「まぁガリラヤに帰って昔のように過ごそう」と考えても不思議ではありません。そこに、行先のなかったほかの弟子たちも一緒に来たというのもうなずける話です。「イエスは復活した」と「これからもイエスの活動を続けよう」ということは、彼らの中でいきなりイコールで結ばれることはなかったようです。この湖のほとりで網を繕っていた時「人間をとる漁師」として召された彼らは「魚を獲る漁師」に戻ろうとしていました。そして以前のように夜通し網を打ったのですが、うまくはいきませんでした。そこへイエスが声をかけたのです。

 わたしたちを含め、人間というのは生き方や考え方を変えることが苦手です。日常の生活習慣から人生の決断に至るまで、パッと変えられる人がいないわけではありませんが、多くないように思います。確かに「よくわかっている」やり方で、考え方で、行動パターンで過ごすことはとても楽です。そうやって過ごした期間が長ければ長いほど、習慣にするというのは難しいものです。「運動はしたほうがいい」と言われます。けれども継続的に運動する習慣を身に付けられる人は必ずしも多くありません。「勉強は継続したほうがいい」とよく言われます。わたしも何度も英語の勉強にチャレンジしていますが、なかなか継続できません。教会でよく「聖書は継続して読むといいよ」とか「お祈りは毎日折に触れてしよう」と声を掛けますが、それが新たな習慣になるまでには時間がかかりますし、ある時ふとやめてしまったりすることもあります。それだけ行動を変えることは大変です。

ペトロも含めた使徒たちは、イエスによって大きく人生を変えられた人たちです。そしてイエスがそばにいていつも教えてくれていたのにもかかわらず、彼らは元に戻ろうとしていました。しかも何度もイエスが目の前に現れて「聖霊を受けなさい」と言ってくれたにもかかわらず、やはり元に戻ろうとしていたのです。なるほど、彼らの人生にとっては「戻った」ほうが安全で、もしかしたら幸せだったかもしれません。ヨハネ以外の使徒たちは皆殉教しています。しかしそれでもなお、自分の生き方を「変えていこう」と思わせるだけの魅力がイエスにはあるのだと思います。だからこそわたしたちは聖書を開いてイエスに出会い、お祈りをして神さまに出会います。そして礼拝に足を運ぶことによって、同じ思いをしている仲間たちと励ましあい、再びイエスに従って歩む道をたどる力を得るのです。「わたしは漁に出る」となった時も、イエスは来て励まし、戻してくれます。そのイエスさまに信頼して、主の示された道をこれからも歩み続けることを大切にしたいと思います。


無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう