イエスのしたように

2024年05月05日

ヨハネによる福音書 15章9~17節

 復活節もいよいよ終わり、今週は昇天日もあり、教会歴は聖霊降臨日に向けて進んでいきます。福音書は「イエスの告別説教」と呼ばれる場面。最後の晩餐の後にイエスが使徒たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と「戒め」を語ります。

 イエスは繰り返し「互いに愛し合いなさい」と弟子たちに告げています。そしてその手本をずっと示し続けてきました。病人をいやし、友の無い人と交わり、食事を共にしました。そして最後に、弟子たちの足を洗って、十字架にかかることになりました。

 「わたしがあなたがたを愛したように」とイエスは言います。イエスのしたことはこの聖書にたくさん書かれているので、わたしたちはいつでもそれを知ることができます。ただ、知ることができるとは言っても、実行しようとすると簡単ではありません。一つ一つのことはできそうでも、なかなかできないこともあるからです。パンを割くことはできても、それを尽きないように分かち合うことはできません。よね。病人のところに行くことはできても、イエスのようにたちどころに癒すことはできそうにありません。友の無い人と交わることはできそうかとも思いますが、本当に必要なところに行けるかどうかはわかりません。わたしたちは不完全なので、全部できるわけではないのです。むしろわたしは、無理して全部やろうとするほうが問題が大きくなるのではないかと思います。イエスは「わたしがしたように」とは言いましたが、「一人ですべて行え」と言っているわけではないからです。もちろん、「やらなくていい」ことなど一つもありませんが、一人一人にできることには限りがありますから。そして、できないことをしようとし過ぎてほかのことまでできなくなってしまうよりも、自分のできることをし続けるほうがよいのではないでしょうか。

そして、わたしたちは「多くいて一つの体」なのです。だからこそ「みんなで」できるようにすることが大切です。そして何より考えておきたいのは、「多くいて一つの体」なのだとしたら、それぞれの部分にとってできることとできないことがあるのは当たり前で、その上下などないということです。足と手のできることは違いますし、目と耳のできることは違います。逆立ちしてもできるようにならないこともあります。そしてイエスも「弟子たち」に言っているのであって、特定の誰かに言っているわけではありません。「あなたがた」に向かって呼び掛けているのです。もちろん個人の努力の意味がないというわけではなく、一人一人のできることが大きくなれば、全体のできることも大きくなります。そして、わたしたちの体に多くの人が参加してどんどん大きな一つの体になり、たくさんのことを「イエスのしたように」できるようになることを目指すほうがよいのです。なによりも、一人でどうにかするのではなくてできるだけ多くの人を一つの体としながら様々なことに取り組むほうがよいのではないでしょうか。

わたしたちの「教会」は「キリストの体」の器です。しかもイエスに選ばれた者たちが集まってできている体です。だからこそ、外に向かっても中に向かっても、わたしたちは「互いに愛し合いなさい」というイエスの命令を行おうとするのです。時に、わたしたちは「できなくなる」時があります。今までできていたはずなのにできなくなることがある。けれどもそんなときは、別の人が補おうとするのが「一つの体」です。だからできるかできないかで「価値がある、ない」が決まるわけではありません。むしろ、補い合うことができないことのほうが「一つの体」になり切れていないということになります。「一つの体」である教会として、共に歩み続けていきましょう。


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