イエスの名によって
ヨハネによる福音書 17章11c~19節
昇天日が終わり、イエスが天に帰って、いよいよ来週が聖霊降臨となります。福音書は最後の晩餐の後のイエスの祈りが読まれます。イエスは「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈ります。
「わたしに与えてくださった御名」「あなたが与えてくださった御名」とイエスは言い方を変えて繰り返しています。これはいくつかの意味にとれます。わたしに教えてくれた「神さまの名前」という意味なのか、「イエスという神から授かった名前」という意味なのか、ということなのですが、「神の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の言葉もある通り、「イエスという神から授かった名前」と読んだほうがよさそうです。なぜなら誕生に際して、マリアは天使から「イエスと名付けなさい」と言われていたからです。そして、その名によって「彼ら」、つまり弟子たち=イエスの名を信じる人たち=わたしたちを守ってくださいと、イエスは神に願います。
「イエス」という名前には「神は(わたしたちの)救い」という意味があります。神さまがイエスに与えた名前であり、イエスを通して弟子たちが神を知ったように、わたしたちもまたその名前を通して神さまを知ることができます。そしてこの祈りを通して、イエスの名前はわたしたちを守るための名前となりました。だからわたしたちは祈るとき、言い回しはいろいろありますが「イエスの名によって」祈るのです。
わたしたちは様々なことを学ぶとき、例えば学校では教科書などを使いますね。教科書だけで難しいなら参考書だったり、資料集だったり、いろいろなものを使って学びます。時に何冊も使うこともあります。なかなかその物事に取り組むだけじゃ難しいものです。みなさん「神さま」を直接学ぶことってできそうですか。わたしはとっても難しいと思っています。実際、神さまと直接黙想によってお話をしても、なかなか神さまの意志がよくわからないうえに、きっと間違えてしまうでしょう。一応聖書という参考書もあるのですが、そもそも聖書そのものが難しすぎてよくわかりません。多分、昔、神さまと人とがもっと近かった時代、感覚的にうまく学ぶこともできたのかもしれません。でも、イエスさまの時代ですら「神さまについて知る」「神さまの意志について知る」ということはなかなか難しかったのです。「律法学者」たちがいて、神さまのことを教えてくれるようになり、人が神さまと直接学ぶということは少なくなっていました。また、その「律法」という「神さまの意志」の読み方も、だんだん違った方向に行ってしまっていました。だからこそ、多くの人のために「イエス」が人のところに遣わされ、神さまと人とが再び近くなり、神さまのこと、神さまの意志が、わかりやすく示されるようになったのです。それでも実際聖書に取り組んでみると難しいものです。だからその後も多くの聖人たちも遣わされ、たくさんの人たちが関わって、教会は多くの人に「神さまの意志」を伝えようとしてきました。もちろん時に間違いますし、変わることもありますが、繰り返しイエスに立ち返って学び、名を呼び、そして祈ることによって、元の道に何度も戻ってきました。そしてそれによってわたしたちは今も神さまにつながることができているのです。
「イエス」の名は「神は(わたしたちの)救い」という意味です。わたしたちはイエスの名を唱えることによって、日々「神さまがわたしたちを救ってくれる」「わたしを救ってくれる」という確信を深めていきます。イエスの名前は、神さまから与えられた一番小さな信仰告白です。イエスに立ち返りながら、多くの先人たちに学びながら、これからも信仰を深めていきましょう。