イエスの声を聞いて
ヨハネによる福音書 10章1~10節
本日の福音書は「羊の囲い」のたとえ。イエスは自分のことを「羊飼い」や「羊の囲いの門」になぞらえて、天の国と自分との関係を説明します。羊たちはイエスの声を聞き分けるとイエスは言います。まぁ、わたしたちはあまり羊を飼ったことがないので、なかなかイメージができませんけど、この聖書の言葉を聞いている人にとっては、羊は身近な動物だったのでわかりやすかったのでしょう。わたしは岩見沢の幼稚園の関連施設で羊を飼っていて、その世話をしばらくしたことがあるので、なんとなく羊の生態を知っていますが、まぁ確かに、呼んだらついてくる生き物ですが、やっぱり普段世話している人のことははっきりわかってるんだなぁと思います。なるほど、確かに「声を聞き分ける」のですね。
でも、わたしはあまり自分が「イエスの声を聞き分けられる」自信がありません。だって、振り込め詐欺などでもそうなのですが、電話などで声だけだと、その人の声をまねされたら本当にわかりません。似ている声の人もいますし、親子でも間違えることがあって、こんなんじゃイエス様の声を聞き分けることなどできるのかと思ってしまいます。しかも、もし悪の力が羊をだまそうとやってくるのなら、声まねくらいは間違いなくしてきますよね。自分の子どもの声で来たら間違いなく騙されて、囲いの外にふらふらと出て行ってしまいそうです。
しかしここで続いて聖書を見ていくと、イエスは自分のことを門であるとも言うのです。イエスを通って入るものは救われ、牧草を見つけるとイエスは言います。イエスは自らの羊を呼び出して囲いの中に入れ、門として守ってもくれるのです。しかもイエスは「出入りして」という言い方をしています。つまりイエスの囲いは出入り自由です。イエスの「囲い」に入ってしまったら出ることができないのではなく、囲いがありながらその本質は自由です。わたしたちには入らないこともできますし、入って中で守ってもらうこともできます。そして、出ていくときも入るときもイエスがチェックしてくれるのであれば、なんと強固なセキュリティでしょうか。こう考えていくと、わたしたちはその「囲い」にきちんと入れているのかが気になりませんか。自分はきちんと入っているのだろうか、知らないうちに実はふらふらと迷い出てしまってはいないだろうかと。
「イエスの囲い」に入るためにはイエスの声を聞いて連れ出してことが必要です。でも、わたしも含めて、実際の「イエスの声」を聞こえる形で提示することは、残念ながらできません。まぁ、実際のイエスさまは2000年前の人なので当たり前です。じゃあわたしたちに提示されている「イエスの声」が何なのかというと、この「聖書」です。この「聖書」にはイエスの声、神さまの声が書かれています。ただ、「声」ですけど実際に「発声」されてはいません。これを読み取るときに必要なのは、わたしたちが「音読」してみることです。黙読のほうが早く読める気がしますが、そうではなくて、実際に「発声」されることが大切なのです。
わたしたち一人ひとりが違った声を持っています。多分ですが、わたしたちのところに届くイエスの「声」もまた一人ひとり違うでしょう。わたしたち一人ひとりには、「聖霊」が下されています。わたしたちの命は「聖霊」によって動かされていて、それは等しく神さまの一部です。聖霊は「息」として、「声」としても現れます。みんな違いますけど、わたしたちの「声」は神さまの一部でもあるのです。だからこそみ言葉を「音読」することによって、イエスの声が届きやすくなるのです。その言葉が何を言っているのか、わたしたちは聞き分けようとします。間違った方向に行きそうなら、イエスが修正してくれます。だからこそ安心してイエスの声を聞いて進むのです。