イエスの言葉を思い出す

2025年04月20日

ルカによる福音書 24章1~10節

 イースターおめでとうございます! イースターに設定されている日の中でも一番遅いイースター。三寒四温ですが、草木が芽を出し始めており、すっかり春になりました。外も新しい命の誕生に満ち溢れています。朗読はルカによる福音書から、婦人たちが墓に行った場面。墓に行ってはみたものの、イエスの遺体はなく、代わりに輝く衣を着た二人の人がいて「イエスは復活した」「イエスの話していたことを思い出しなさい」と告げたので、婦人たちは使徒たちにこのことを伝えます。

 みなさんの「愛唱聖句」は何ですか。もちろん決まっている人も、決まっていない人もいるでしょう。また「聖書の中のこの場面が好きだ」とか「この人の動き方が好きだ」という人もいるでしょう。その言葉を、または場面を思い出してみてください。「聖書のこのあたりだったかな」「どんな場面だったかな」と思い返していくとき、みなさんはどのくらいリアルに「思い出す」ことができるでしょうか。

 教会で「思い出す」と言った時、それは「ああ、あんなことがあったな」とか「あんな場面だったな」と、うっすらと思い出すことではありません。今、目の前でその場面が繰り広げられているように思い出すということです。そしてまた、俯瞰して、例えば映画のように思い出すのではなく、自分がそれを言われたように、その登場人物になったかのような視点で思い出すということです。特に神さまの言葉やイエスの言葉であれば、それを間近で聞いていた人々の中の一人として、あるいは癒しを受けた、叱責を受けた対象者として聞くということです。

 こうやって聞くと「え、ちょっと待って」という気になります。だってわたしたち、その場面に実際にいたわけじゃないからです。それでも「そうやってリアルに思い出さなきゃいけないのか、」と思ってしまいますね。でも、教会だってそんなことはわかっています。だからこそ様々な手段で、誰でもなるべくリアルに想像できるように、教会は様々なものを受け継いできました。教会で行われる聖餐式は「最後の晩餐」の時を「思い出す」ように作られ、受け継がれてきています。「取って食べなさい」から始まる感謝聖別の言葉は、聖書に伝わっている言葉のうちでも、確実にイエスがその通りに言ったであろう言葉のうちの一つです。「聖餐制定語」と言われるこの言葉が、聖餐式が「最後の晩餐」をわたしたちがいつでも感じることができるように、そして世にある人と世を去った人とをつなぐ一つの食卓へ招く言葉となるのです。他にも、例えば絵画や彫刻、そして音楽など、わたしたちがたくさんの方法ではっきりと「思い出す」ことができるように、たくさんのものが生み出されてきたのです。そもそも、新約聖書の多くを占める「手紙」をたくさん書いたパウロもまた、イエスに直接会ったことがない人の一人です。それでもパウロは、はっきりとイエスを感じ、「思い出し」て、あちこち旅をして各地を巡って人と話したり、「手紙」をあちこちの教会に書き送ったりして、言葉でイエスを伝えようとしたのです。そしてそれを聞いた人々も、読んだ人々もまた、同じようにしてイエスをはっきりと「思い出して」その後に続いて行ったのです。そして、わたしたちもまた、その流れの、いわば最先端にいるのです。

 もちろん今すぐ、リアリティをもって「思い出す」ことは難しいかもしれません。でも、様々な場所で人と話したり、聖書を読み込んだり、時代背景を学んだり、音楽を聴いたり、絵画をみたり、そうやってわたしたちの心をイエスを、聖書を「思い出す」ことに向けることによって、だんだん「はっきりと」見えてくるようになるでしょう。イースターにそのことを確認して進んでいきましょう。


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