イエスを知る
ヨハネによる福音書17章1~11節
今日は復活節第7主日。復活日から始まった祝いの期節も終わりになります。また今週の18日が昇天日ですから、時系列的にはイエスが天の国に帰ってしまって聖霊が下るまでの9日間の空白の期間でもあります。そこで今日の福音書はイエスの祈り。ヨハネによる福音書のイエスが裏切りの前に神に祈りを捧げます。そして最後に父なる神に「私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と願います。彼らというのは、イエスの言うところの「私に与えてくださった人々」すなわちイエスを信じる人々のことです。来週が聖霊降臨日で、「聖霊なる神」が降りますが、それまでの間、父なる神が守ってくれるように、ということでこの聖書の個所が選ばれているのでしょう。
イエスは、自らが栄光を現すことで、すべての者に永遠の命を与えることができるようになるといいます。「栄光を現す」のは、この祈りを聞いていた弟子たちには分かりませんでしたが、要するに十字架につけられて復活することです。イエスは十字架と復活によって、「あなたから賜ったすべての者」に「永遠の命」を与えることができるようになりました。「永遠の命」とは「神とイエス・キリストを知る」ことだとイエスは言います。
「知る」というのはなかなか難しいですよね。わたしも神学をちょっと勉強したわけですが、到底「神を知った」「イエスを知った」ということは難しいというのは学べば学ぶほどわかります。いくら学んでも尽きることがないのがこの2つです。もちろん神さまのことだけではなくて、学校も含め、色々なことを学べば学ぶほど、全然知らないなぁ、知らないことのほうが多いなぁという気になってきます。自分の周囲の人のことも「知っている」と思っていても、知らないことがたくさん出てきたりします。とある信徒さんのお宅に訪問に行っていたときのことです。色々な昔のお話をたくさん聞かせていただきました。奥さんも一緒に聞いていて「ハイハイ」とまぁそんな感じで相槌を打っておられたのですが、ある時「え?その話初めて聞いた」と言い出したのです。本人は「あれ?話してなかったっけ」という感じでしたが、ちょっとこちらがびっくりしてしまいました。連れ添ってもはや半世紀のご夫妻でしたが、それでもそんなことってあるんだなぁと、貴重な話を聞かせていただいた恵みに感謝したものです。こうやって、たくさんの時間を共に過ごしても、知らなかった話がたくさんあったりして、「知る」というのは本当に難しいことだなと思わされます。でも、知らない話を初めて聞くときってワクワクしますよね。まぁ、「ずっと黙ってたのか」って気になるかもしれませんが、場の雰囲気で急に回路がつながったりすることもあるので、別に黙っていたわけじゃないんですよね、人と人とが出会うことによって、新しい出来事がもたらされたんだと思います。だからわたしたちは常に「新しいこと」に出会って「知って」受け入れることが大事です。それが「知る」ということだからです。これは身近な人の例ですけど、神さまだって同じです。わたしたちが知らなかった、今まで思ってもみなかったことを「知る」ことってよくあります。その時にサポートしてくれるのが「聖霊」なのです。聖霊の力が、わたしたちに「知る」ことをもたらしてくれます。
「新しいこと」を知るときに大切なのは「受け入れる」姿勢です。神さまに向かって、周囲の人に向かって「開かれている」姿勢です。わたしたちがもし、「十分に知っている」と考えて、閉じてしまっているのなら、わたしたちは神さまを、イエスさまを「知る」ということはかなわないでしょう。だからこそ「開かれて」、聖霊を受け、その力によって新しく知っていきましょう。