ラクダの通れる針
マルコによる福音書 10章17~27節
本日の福音書はマルコから、イエスが「永遠の命を受け継ぐこと」について質問されて、「行って持っている物を売り払って施し、それからわたしに従いなさい」と答えた場面。最後は有名な「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」という言葉で閉められます。
針に糸を通すのって、難しいですよね。子どものころは何とか通せたのですが、今は目がかすむことがあって、苦労しながら通しています。ただの糸さえ難しいのに「いわんやラクダをや」ってところですね。それほど難しいのか、と思います。でも「財産を全部売って」ってイエスはものすごく厳しいことを言うなぁと思います。日本で暮らしているということは、世界の中ではお金を持っているほうでしょう。だからみなさん、全部の者を売り払って貧しい人に施してね、と言われたらできますか。まずできないでしょう。わたしもちょっと無理ですね。と考えていくとどんどん難しくなっていきます。これ、どう考えたらいいんでしょう。
このイエスと金持ちの男とのやり取りは、いくつもの解釈をされてきました。例えば「ラクダ」という単語を一文字変えると「綱」という単語になるので「これは書き間違いが残ったのだ」とか、当時の「エルサレムの神殿の門には『針の穴』と呼ばれた小さな戸口があった」という、少しでも圧力を弱めようとする試みがあります。なるほど、これらの例を用いて説教をすれば、わかりやすいし、イエスの言葉が少しなじみのあるものになる気がします。でも、これらのことって確認のしようがありませんよね。あくまで想像の域を出ないものです。それを言ったら、実は当時の技術の粋を尽くした「ラクダの通れる穴の針」が存在したんだ、と言うこともできるわけです。さすがに荒唐無稽な気はしますが、鉄だから錆びて朽ちてしまったんだと言い逃れることもできるでしょう。イエスの厳しい言葉を「何とか自分たちも実行できるのだ」「大丈夫なんだ」という形にしようとするのは「ラクダの通れる針」を造ろうとするようなものです。
普通に考えれば「富」は神の祝福の象徴です。イエスの生きていた時代もそうです。しかしイエスはその「富」が神の祝福であるのなら、その使い方を問題にします。むしろ「富」があることによって、自分の周りに目が向かないことがあり得ることを示しました。そのことで神の国への道が閉ざされると喝破したのです。だからこそ弟子たちは「誰が救われるのだろうか」と大いに驚くのです。そしてイエスは「神には何でもできる」とまとめています。
でもここで、イエスの言葉を律法主義的に解釈するのは望ましくありません。初期のキリスト教徒たちも、必ずしも全部の財産をなげうっていたわけではないからです。一部にはそういう人もいたようですが「世の終わりが来る」という期待の高まりがあってのことで、それが「いつだかわからない」状況では、なかなかイエスの言うようにはできないものです。それこそ「入信するには私有財産をすべて教団に寄付せよ」という決まりがあったら、それはまさにカルト宗教的だと言えるでしょう。もちろん、例えば修道生活なんかはまさに私有財産を極力減らして共同生活をしますが、一方在俗の修道会もありますから、必ずしも私有財産を認めないという話ではありません。
確かにイエスさまの厳しさの前に立つのは大変です。それこそ震えるのかもしれません。でも、わたしたちはその厳しさを認識することが大切なのです。どうやったらできるのかはさっぱりわかりませんが「神さまなら何とかしてくれる」と思い、ささげられるものはささげつつ、日々を生きることを大切にしていきましょう。