一つ一つに目を向けて
ヨハネによる福音書 6章1~15節
本日は大斎節第4主日。今日の福音書はヨハネから「五千人の給食」。ついてきた大勢の群衆に対して、イエスが少年の持っていた「5つのパンと2匹の魚」を祈りをささげてから分けると5000人が十分に食べることができました。これも先週に引き続き、すべての福音書に入っている話で、細部は違いますが「5000人が満たされた」ということは変わりません。
「○○が足りない」 わたしたちはこの言葉をよく言ったり思ったりするのではないでしょうか。「お金が足りない」「人が足りない」「時間が足りない」などなど。まったく思ったことがない人は少ないでしょう。世界を見回しても「何かが足りない」という思いが出てこないところなどありません。日本という国は世界中でも「満ち足りている」方の国ではあります。少なくとも「食べ物が足りない」ということは少ないでしょう。(ないとは言いませんが)一方で多くの国では「食べ物が足りない」ということが日常です。そして、考えてみれば「足りない」ものがなくて、「完全に満ち足りている」国はあるのでしょうか。最貧国の人々からすれば、日本は「満ち足りている」と見える国ですが、多分そこでしばらく過ごせば、「○○が足りない」と考えるようになるでしょう。「足るを知る」というのは難しいのでしょう。
イエスはこの状況で「何をしようとしているか知っていた」のですが、弟子たちにとっては絶望感にあふれる状況だったに違いありません。ついてきた人々は「五千人」だったと記されています。ものすごいスペースが必要になります。普通にイベントをやろうと思ったらスタジアムが必要になるレベルです。5000人が参加する礼拝をしようと思ったらどんな準備が必要か考えただけでクラクラします。そこにたった12人、いやイエスも入れて13人で食べ物を与えるのにどのくらい時間が必要でしょう。1人に食べ物を渡すのに3分と考えても、1人でやったら250時間必要になります。13人でやっても20時間ほどです。どう考えても「時間も人も足りない」ですね。さらに「5つのパンと2匹の魚」です。「食べ物が足りない」にもほどがありますよね。「とても現実的じゃない」と企画を練り直すレベルです。しかし、イエスは感謝の祈りを唱えてから座っている人々に分け与えました。一人ひとり話しながら分け与えられたのでしょうか。魚も同じようにされ、人々は満たされました。確かに「奇跡」であると思います。
「時間が足りない」と思いますが、わたしたちが何かをするとき、基本的にいっぺんに一つのことしかできません。今でこそ様々な機械を使っていくつかのことを並行してできるようになっていますが、たいていできることは「一つ」です。そして、いっぺんに多くの人と向き合うのは難しく、その時向き合えるのは「一人」です。わたしたちは多くのことをしようとして、いや「しなくてはならない」と感じているので「時間が足りない」「手が足りない」と思ってしまいます。もちろん全体的な状況としてはそうなのですが、「目の前」にあるのは「一つ」のことだけです。そこに向き合わなくてはたくさんのことなどできはしません。「一つ一つ」やっていくことが大切です。イエスは5000人の人々と一人一人向き合いながら、食べ物という必要を満たしていったのです。そしてついに、5000人が満たされたのです。
教会でも「足りない」ものは多いです。「○○があれば」と何度思ったことでしょう。しかし、教会として目を向けられることは残念ながら多くはありません。わたしたちが今、目を向ける「一つ」は何でしょうか。自分たちの目の前に出てくる「一つ一つ」にじっくり目を向けていきましょう。