三位一体の名の下に

2023年06月04日

マタイによる福音書28章16~20節

 本日は三位一体主日。福音書はマタイによる福音書から「大宣教命令」と言われる個所です。ガリラヤの山でイエスに出会った弟子たちは疑いながらもイエスの命令を受け、宣教を始める、マタイによる福音書のクライマックスです。ここでイエスが「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言っていることから、この個所が採用されています。

 実は聖書に「三位一体」に言及されている箇所はほとんどありません。今日朗読した福音書の箇所のほか、パウロの手紙にいくつか記述があるだけです。個人的な感想ですが、最初はそこまで重要な考え方だと思われていなかったのかもしれないなと思います。しかし、父なる神とイエスの関係が考察されていく中で、三位一体の信仰は発展してきました。キリスト教の歴史において、最初に大論争になったのはこの「三位一体」についてです。ある程度「三位一体」についての教えが確定したのは、実に451年のカルケドン公会議においてです。下手したら200年は論争している計算になります。わたしたちはその流れの中で出来上がった「ニケや信経」(正確にはニカイア・コンスタンティノポリス信条)を聖餐式の中で必ず唱えて「三位一体」の神への信仰を保っているのです。

 イエスは弟子たちに対して「すべての民を弟子にしなさい」と告げます。これを「大宣教命令」と言い、教会が人々にイエスのことを伝える原動力でもあります。もちろんわたしたちにとっても、大切なイエスの命令です。一方で、これを受けた弟子たちは「はは~っ」とみんながひれ伏して簡単に従ったわけではないようなのです。「しかし、疑う者もいた」と書き残されているからです。これはおもしろいなぁとわたしは思っています。聖書って、不利になるんじゃないかと思えることも大切に残しているんですよね。ここはとても大切です。イエスを信じる時「疑う」ことを許されないのではなく、「疑いながら」進んでもいいのだということなのです。そもそも「三位一体の信仰」は本当にわかりにくいものです。感覚では「なるほど」と思えても、言葉に表すとなんとなく違うような気がするもので、学べば学ぶほど訳が分からなくなってきます。本当に大丈夫かと考えてしまうこともあります。でも、イエスが「疑いながらでもいい」「わからなくてもいい」ということを言ってくれているおかげで、わたしたちは三位一体の名の下に、周囲の人々に神さまのことを伝えることができるのです。そして、その伝えられた相手が「疑っても構わない」のですね。「改宗しなければ殺してしまえ」というような苛烈な信仰ではなく、多くの人と共に歩もうとする信仰なのです。疑いを持っていても、神さまはわたしたちと共にいるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっているのです。

 「宣教」と聞くと、何やら難しいことをしたり、辻説法をしたり、というアグレッシブな姿勢を思い浮かべるかもしれません。しかし、わたしは「宣教」というのはそれだけではないと思っています。むしろ何も言わずに、大変な思いをしている人たちや、自分の周囲の人たちと共に歩む、その姿勢が宣教の大切な側面なのです。そして、その時にたとえ疑われたとしても、共にあり続ける、手を差し伸べ続けるのが、イエスの命令の一つであるように思います。「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった神さまが共にいるからこそ、わたしたちはそうすることができるのです。これからも、イエスさまの命令を胸に、三位一体の名の下に進んでいきましょう。


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