二人または三人の祈り
マタイによる福音書 18章15~20節
本日の福音書は弟子たちがイエスに「天の国ではだれが一番偉いのか」と聞いたことから始まっている一連の説教の中の一つの部分です。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところでとがめなさい」から始まり、最後には「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と結ばれています。
今日の箇所の中には2回「二人または三人」というフレーズが出てきます。「二人」でも「三人」でもなく「二人または三人」なのです。こう言った決まりを作る場合、きちんと「二人」とか「三人」とか、「何人以上」という言葉遣いになるものですが、イエスはあえて「二人または三人」と言っているわけです。例えば、日本聖公会の法憲法規には「教会委員会は3人以上とする」と書かれています。これは「教会は最低限3人の信徒が必要ですよ」とも読み替えられますよね。それ以外にも様々な委員会の最低の要件を「3人以上」としているものが多いのです。それはこの聖書箇所に拠っていると考えられます。でも、イエスは「二人または三人」と言っているのに、なぜ「三人以上」なのでしょう。
もちろん、教会に集い、祈る人の人数は多いに決まっています。けれども、昨今、小さな教会が増え、礼拝も一人だけだったりすることもありますし、わたしも「聖餐式に誰も来られなかった」という経験を何度もしています。信徒が教会に足を運ぶのではなく、わたしがそれぞれの方のご自宅に足を運んで、「二人または三人」の祈りを繰り返すことも増えてきました。でも、かつての、イエスがいたころの信仰のあり方というのは、もしかしたらここにあるのかもしれないと思うことがあります。使徒たちがそれぞれの家をめぐり、祈り、そしてまた巡っていく。信仰は「大きな教会にみんなが集う」のではなく、あちこちで「二人または三人が集う」ことが原点であるのかなと思います。
イエスは言います。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」。二人で祈るとき、心を合わせて祈るとき、そこにイエスさまが来ると、人数は「三人」です。目には見えないけれども確かにイエスがそこにいると感じられる時がたまにあります。目には見えないので「二人または三人」ですが、こうすれば確かに「二人または三人」ということなのだろうなぁと感じられます。
むしろわたしたちにとって大変なのは「心を合わせる」ということなのかもしれません。人間の形成する集団の最小単位である「夫婦」ですら、なかなか心を合わせることができません。赤の他人同士だったらなおさらです。しかし、わたしたちには信仰と祈りがあります。わたしは、「祈り」というのは、思いを向ける方向を揃えることだと思っています。だからこそ黙って祈るのではなく、言葉に出して祈ることが大切なのです。「主よ、わたしたちの想いをあなたのもとに届かせてください」とよく祈ります。わたしたちは普段、考えていることがバラバラです。そういうものですしそれでよいのですが、ただ「祈り」の時は、その祈りの言葉に心を合わせていくことが大切だと思います。だから、祈祷書に書かれている祈り、自由なお祈りも、わたしたちはその言葉に敏感でありたいと思います。ただ漫然と「書かれているから祈る」というのでは、心は合わさらないでしょう。なんなら慣れているから別のことを考えているまであります。書かれた祈りの言葉を読み込みながら自分のものとし、自由な祈りを紡いで、「心を合わせて」願いましょう。その時、主はあなたの目の前に。