二面性を受け入れる
マタイによる福音書 27章1~54節
今週は復活前主日。イエスのエルサレム入城の記念であると同時に、イエスの受難を記念する聖週の始まりの日でもあります。イエスの栄光と受難の二面性が入り混じった記念日です。今日の福音書はマタイによる福音書から受難の場面を読みました。主の受難の様子は何度読んでも胸が締め付けられるようで、朗読しながらいろいろ考えてしまいますね。
毎年この個所を読むと考えさせられるのは、エルサレムの人々の二面性です。「ホサナ、ホサナ」と歓呼の声で迎えたイエスに対して、その三日後には「十字架につけろ」と叫んでしまうのですからびっくりです。もちろん、これはわたしたちも他人ごとではありません。最近にニュースを見ていると、ついこの間まで持ち上げていた人に対して、排除に回ってしまうという二面性を持った振る舞いは、わたしたちにも受け継がれているのかなと思う時があります。政治家に対しても、タレントや文化人に対してもそうです。わたしたちの周囲にいる人に対してだって手のひらを返したように二面性を見せることがあります。どこかに一つでも瑕疵があれば叩くというのをよく見ます。まさに現代の「十字架につけろ」なのかもしれませんね。わたしたちもまた、これらの二面性から無縁ではありません。大体において、すべての感情が首尾一貫して変わらない人というのはほとんど見たことがありません。わたしたちはどこかで、自分の中にも矛盾を抱えながら生きているものです。わたしたちは誰もが、イエスを十字架にかけたような二面性を持っているのです。
こういうと「そんな二面性があるのは良くない。悪い面を何とかしよう、無くしてしまおう」と考えることがあります。もちろんそうできればいいのでしょうが、そう簡単にできることではありません。良い面も悪い面もあって人間であって、わたしたちの中にも「十字架につけろ」と言った群衆の側面があるのが当たり前です。わたしは自分がそういった面を持っていることを「受け入れる」ことのほうが大切だと思っています。
イエスは受難の時にも関わらず、彼を排除しようとした人たちに対して何もしませんでした。「それはあなたが言ったことだ」と返しただけです。自分を歓呼の声で迎えた人々に対しても、あまつさえ強盗に対しても、何も言わなかったのです。これはイエスが「人間は二面性を持つ存在である」ということをわかっていたからではないでしょうか。そして、ほかの福音書では「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈ったとも言われています。わたしたちは、自分で自分のことを理性的だと思っていても、知らずによくない行動をとってしまうこともあります。わたしたちは自分で自分のことを100%コントロールできるわけではありません。「何をしているのか知らないのです」ということは起こりえます。もしかして、わたしたちが「正義」だと思っていることも、違う時があるかもしれません。だからこそ、わたしたちは自分の持つ二面性を「受け入れる」必要があります。それを十字架につけて排除するのではなく、自分の十字架として受け入れつつ、共に歩む必要があります。イエスは十字架につけられることによって、その道を示してくれたのです。
最後に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とだけ叫んでイエスは息を引き取りました。そこで多くの人が「まことに、この人は神の子だった」と言うようになったのです。イエスの十字架にはそれだけの力があります。今週は「聖週」、イエスの受難の記念です。せめてこの1週間、イエスの十字架を思い出しながら、自分の中にある薄暗いところも抱きつつ、イエスに従うものでありたいと思います。