交わりの中へ

2023年06月11日

マタイによる福音書9章9~13節

 今日の福音書はマタイによる福音書から徴税人マタイが弟子になる場面。イエスが「私に従いなさい」と声をかけるとマタイはイエスに従います。そしてイエスのところで同じ徴税人たちと食事をするのですが、そのことに関してイエスはファリサイ派の人たちから「あんな奴らと一緒に食事をするとは」と批判されますが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と一蹴します。

 イエスはマタイたち徴税人や「罪人」とされた人たちのことを「病人」と表現したわけですが、「徴税人」という職業が「悪」であると感じていたわけではないようです。「病気」ならば治療すれば「健康」に戻るわけですからね。そもそも「徴税人」というのは、ローマ帝国が支配する民族を分断するために設置した職業で、職務に忠実になればなるほど恨まれる構造になっていたからです。恨まれれば、当然恨み返すわけですから、団結するなんて夢のまた夢になってしまいます。マタイはこの構造に組み込まれていました。生きるために仕事をしようとすれば恨まれてしまうし、でも本当は同じユダヤの民として過ごしたかったのです。だからイエスの声掛けにすぐに従ったのです。普通「わたしに従いなさい」と言われてすぐに全部捨てて従う人はいません。マタイにとって必要だったのは「受け入れてくれる人たち」だったのでしょう。その後、マタイは12人の一人として福音書を著すまでになったのですから。

 イエスはユダヤの国の中でも、周辺に置かれた人たちのところに出かけて行きました。「徴税人」などの「罪人」とされた職業の人々や、「病人」たちと積極的に交わりました。この時代、「一緒に食事をする」というのは今よりも重要な意味を持っていました。身分が違ったら一緒に食事をすることはありませんし、「罪人」と一緒ならもっとありえません。でも、イエスの様子を見ていると、「罪人」とされた人たちを忌避している様子は見られませんし、自分の弟子たちと一緒に扱っていたようです。みんな同じ神の子であって、「病気」ならば治療すればいいだけ、ということでしょうか。何より、イエスが一緒に「食事」をした人たちに共通しているのは、「交わりから絶たれていた」ということです。当時の社会の状況だと、何か問題があれば「交わりから絶つ」というのが一般的でした。病気であれば隔離する、何か悪いことをしたら交わりから遠ざける、律法に違反したら町の外へ。そもそも律法に違反せざるを得ない人のことは考えられていません。確かに「交わりから絶つ」というのはとてもわかりやすく、人の集まりが小さい時はそちらの方が効果的です。荒れ野でさまよっているときに、悠長に人の話を聞いていることはできないでしょう。しかし、人が定住し、社会の規模が大きくなってくれば、ゆっくり話を聞いて、様々な規範を変えていくことが必要になってくるものです。また、様々な人を受け入れるようになっていくことが必要になります。

 人間の社会はとても大きくなりました。わたしたちは世界中どこでも行くことができるし、今まで出会ったことのない人たちと出会うことができるようになりました。教会も世界中いたるところにできるようになりましたし、様々な事業を展開するようにもなっています。けれども教会の中の意識は古いまま、「交わりから絶つ」という形でしか表現できないことが多いのではないでしょうか。こんな格好をしている人は教会にふさわしくない、こんな考え方だったら、あそこの一族は・・・などなど、今でも聞くことがあります。しかし、このイエスの振る舞いを考えるのなら、わたしたちの教会の交わりには、どんどん色々な人を受け入れていくものでありたいなと願うのです。


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