人々の前でキリストを認める
マタイによる福音書10章24~33節
今日の福音書はマタイによる福音書からイエスの勧めが読まれます。イエスは迫害を予告し、それに対して「体は殺しても命は殺すことのできない者どもを恐れるな」と言い、「誰でも人々の前で私を認めるものは、私も天の父の前でその人を認める」と人々を励まします。
今、みなさんがキリスト者であると言って迫害を受けたことがありますか。ほぼないんじゃないかと思います。嫌がられたり避けられたりすることはあっても、それを理由に逮捕されたり石を投げられたりするまでにはいかないでしょう。本当に良い時代になったものです。しかし一方で「迫害される」とまではいきませんが、露骨に避けられたり、嫌がらせを受けたりすることがないとは言えません。特に統一協会などキリスト教系カルトの問題が出てきてからは、周囲の目が厳しくなったように感じられることもあります。
自分のことを思い出してみますと、小学校の時はあまり気にせずに通っていましたが、友達から「なぜ日曜日に遊べないのか」と言われて答えに困った覚えがあります。また「アーメンソーメン」くらいのことはよく言われていたので、教会に通っていることをあまり言わなくなりました。結局神学校に行くことを考え出すまで、おおっぴらに「キリスト者である」ということを周囲に言うことはなかったような気がします。今はそもそも「牧師がキリスト者ではない」なんてことはありえないので、いつも「自分はキリスト者です」とはっきり言うことになるわけですが、みなさんはどうでしょう。自分の信仰のことを自分の周りの人にお話しすることってありますか。きちんと言うことができる環境ならいいのです。でも、なかなか言うことができない環境だと、大変ですよね。
一方で「人々の前で私を認める」=イエスを信じていることを表明する方法は一つではありません。それは「行う」ということです。イエスがわたしたちに命じたように、「互いに愛する」ということです。周囲の人々を大切にし、わたしたちの体を使ってイエスさまに倣うということです。イエスのようにすべてはできないかもしれないけれど、ホンの一つだけで構いません。「わたしはイエスの名によってこれを行うのだ」ということを持ってみてください。小さな事でいいんです。例えば、家の前の歩道を掃くこと、目についたごみを拾うことなどでもいいんです。挨拶することでも、人のために仕事にまい進することでもいいんです。わたしたちの行いの一つ一つを「イエスの名によって行う」と考えることが大切です。そうしていくことで、わたしたちの体の中にいる霊が強められていき、一つ一つの行いは小さくとも、わたしたちがキリスト者であると周囲の人が知るようになるのです。そして、わたしたちがキリスト者であるということは、周囲の人を無理やりにキリスト者にしようと試みることではありません。無理な勧め方をするのはカルトの第一歩です。むしろ、わたしたちの行いによって興味を持ってもらうことこそがまず大切です。でも、興味を持たせるために活動するのではなく、わたしたちが本当に「イエスの名によって」それを行っているのだ、と伝わったときにこそ、本当に伝わるのではないでしょうか。もちろん、そうやって行ってもなかなか認められなかったり、成果が出なかったりして苦しいこともあるかもしれませんし、「無駄だよ」と言われたりするかもしれません。でも、わたしたちが本当に「イエスの名によって」行うのなら、無駄なことは一つもありません。この世界を少しずつでも神様の国に近づけることに無駄なことなどないのです。ですから、イエスの名によって、「周囲を愛する」行いをしていきましょう。