人として祝される

2025年02月02日

ルカによる福音書 2章22~40節

本日は「被献日」。通常だと顕現後第4主日になりますが、2月2日は固定祝日で「被献日」となります。クリスマスからちょうど40日ですね。福音書はルカから「イエスの宮参り」。マリアとヨセフに連れられて赤ちゃんのイエスがエルサレムの神殿にやってきます。そこでシメオンとアンナに出会い、祝福を受けます。「神殿で献げられた」日なので「被献日」ですね。クリスマスの装飾は最長でこの日まで飾る地域もあります。また、少しわかりにくいのですが、この「宮参り」は2つの出来事が並行的に行われています。一つはイエスを「神殿で献げる」こと、もう一つはマリアの「産後の清め」の後の参拝です。だからこの日はマリアのための日でもありました。このことから日本聖公会婦人会の創立記念日として礼拝が行われています。また葬送式には必ず、ここで出てくる「シメオンの賛歌」が使われますが、これは「シメオンはメシアを見るまでは死ぬことがない」と言われていたが、イエスを見たので「天に帰れる」と喜んだということから来ています。

イエスにとっては「献げられた日」ですが、マリアとヨセフにとっては驚きの日であったことでしょう。普通はただ神殿に行って、犠牲をささげて帰るだけのはずが、シメオンやアンナに祝福されて子どもの将来について語り掛けられたからです。そして「シメオンの賛歌」は祝福なのですが、シメオンに語り掛けられたことは、よく読んでみると「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう」と、少し不穏な空気が流れる言葉にもなっています。ただ祝福されたから喜ぶだけではなく、不安も感じさせる出来事でした。

この一連の「宮参り」の出来事(他にも、子どもの頃の出来事)で、ルカが再三強調しているのが「律法に言われている通りに」ということです。イエスはユダヤ人であり、長じてからは何度も律法学者と論争していることから「律法を無視している」と考えられがちですが、そうではなく、ちゃんと律法を知って、必要なことは子どものころから行われていたのだと強調するためなのでしょう。確かにイエスは「律法」の本質に切り込むような言い方をしますが「律法自体はすべて不要なのだ」という言い方はしていません。「律法」もまた「神からの恵み」として大切だととらえていたのです。

この「被献日」はクリスマスからの「イエス誕生」のお祝いの流れの中にあります。でも「クリスマス」もそうですが、この「被献日」もイエスにとってはよくわからない出来事ですよね。だって赤ちゃんだったのですから、いくら「神の子」とはいえ生まれたときから何かができたわけではありません。両親に守られる期間として過ごしていたわけです。だからこの日は、実は両親たちにとって大切な日だったのだろうとも思います。本来はただの「通過儀礼」としての一日でしたが、シメオンやアンナと出会い、祝福を受け、両親もイエスの今後について深く思いめぐらしたのではないでしょうか。人間の子どもは長い年月をかけて成長します。その過程でたくさんの「祝福」を受けますが、もちろん順風満帆に育った子どもなど一人もいないでしょう。イエスもまた、そうやって大きく成長していったのです。イエスのことを神学的には「神」であり「人」であると言います。奇跡的な力を行使する「神」でありながら、「人」として紆余曲折がありながら成長してきたのです。わたしたちただの「人」のことも、「人」として在ったことがあるのならわかってくれる、イエスの幼少時のエピソードは、わたしたちにそんな希望も示してくれるのではないでしょうか。聖書には書かれていないところですが、イエスもまた「人」であったことを大切にしながら、「神」であるイエスに助けを願い続けていきましょう。


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