今でも遅くない
マタイによる福音書 21章28~32節
本日の福音書は「二人の息子」のたとえ。これも有名なお話ですね。断ったけど考え直して出かけた兄と、承知したけど出かけなかった弟が対比されています。これは、祭司長や民の長老たちにイエスが投げかけたお話ですが、彼らと「徴税人や娼婦たち」が対比されています。徴税人や娼婦たちが「兄」、祭司長たちや民の長老たちが「弟」として読むことができます。
祭司長や民の長老と言えば、この時代「律法を守って正しく暮らす」ことができる人たちです。宗教的にも社会的にエリートです。そして彼らはそれを自負しています。神の律法を守ることができるわたしたちこそ神の国にふさわしい。わたしたちこそ救われるのだ、というわけですね。なるほど、彼らは確かに「律法を守る」ことができていますし、そのことは評価されるべきでしょう。しかし一方で、彼らは「人間が自分の力だけですべて守ることはできない」ということを忘れてしまっています。そして彼らは「ぶどう園で働く」のではなく、自分たちの体制を守ることに汲々としてしまっています。イエスという自分たちを脅かす、自分たちに問いを突き付けてくる存在に抵抗してしまっているのです。もしイエスのことや、徴税人や娼婦たちをも「一緒にぶどう園で働く仲間」と捉えるのなら、自ずとその態度は変わってくるはずです。「律法を守ったか守らないか」=「神の言いつけにはいと答えたか」にこだわるのではなく、実際にどう行動したかに焦点が当たっています。
先週も「ぶどう園」のたとえでしたが、この「ぶどう園」は「世界」を表しています。「ぶどう園で働きなさい」ということは、この世界に対して神の名によって働きかけなさいということです。教会がそこに立って「祈り」「互いに愛し合い」「敵をも愛する」姿勢を見せる時、世界に働きかけていると言えます。そしてわたしたち一人一人がそこから出かけて行って、社会の中で主イエスのなされたように愛を示すとき、世界は少しずつ変わっていきます。しかし一方で「そんなことはわかっています」と言いながら何もせず、ただ教会の維持にだけ関心を持つのなら、わたしたちもあっという間に祭司長たちや民の長老たちと同じ立場になってしまいます。
徴税人や娼婦たちは、自分たちが「律法を守る」ことなどできていないし、これからもできないということをよく知っていました。だからこそ彼らは「後で思いなおす」ことができます。自分たちの生活の中でままならない部分はありながらも、イエスのもとに集い、自分たちの生き方を懸命に変えていこうとしています。その「できないかもしれないけれども変えていこうとする」ことが神にとって大事なのです。人間は結構あきらめがちな生き物だと思います。「無理だよ」と言ってしまう。なるほど、それが「自分でだけ」するのであれば確かにそうかもしれません。独りの力には限界がありますから。でも、同じ道を歩もうとする信仰の仲間と、そして「神の助け」によって、わたしたちは生きていますし、何度でも「思いなおす」ことができます。「もう遅い」ということは、神さまの基準ではありません。今からでも遅くないのです。いつでも遅くないのです。
もちろん言行一致が最上なのでしょう。ただ、そのようにできる人は多くありません。多くの人が「無理です」と言いながら「なんとかやってみます」と思い直して生きていますし、それでいいのです。「だめだ」と一度は思っても、考え直してちょっとでも進むことができるのならそれでもいいのです。そして、わたしたちにとってもっと大切なのが、わたしたちの教会は「思い直した」人の集まりだということです。誰が先とか後とかじゃない。みんなでこの世界というぶどう園で働く人です。そして、神の助けを受けて何とか思い直して生きているのです。