何をしたのかしないのか
マルコによる福音書 15章1~39節
本日は復活前主日。今日の福音書はマルコから、イエスの受難の様子が読まれます。また、今日はイエスのエルサレム入城を祝う日でもあり、イエスがエルサレムに来て、「イエスの死と復活」という、教会にとって一番大切な1週間が始まります。この「聖週」はわたしたちの信仰の原点として、常に大切にしたいときです。また、いつかはやりたいと思っていますが、今日の長い福音書朗読の中で、群衆が「十字架につけろ」と叫ぶのですが、ここを皆さんに読んでもらうという習慣もあります。毎年「ちゃんと式文を作らなきゃ」と思うのですが、なかなかうまくいきませんね。
常々思っているのですが、この「受難」の時、イエスは逃げようと思えば逃げられたはずだし、そもそも尋問を受けているときに反論してこの人々が間違っていることを示すこともできたはずなのです。それができるだけの力があったはずです。イエスは神だからです。しかしイエスはそうなさらなかった。逃げ出すこともなかったし、何も答えることがなかったのです。本当に、毎年この個所を読むたびに、痛みと同時に「なぜお逃げにならなかったのですか」という思いがいつも頭をもたげます。しかし一方で、ここで逃げたり言い負かしたりしても、最近流行りの小説だったらいいのかもしれませんが、神さまとしては良くなかったのでしょう。もしそこで言い返したり、逃げ出したりしたとしたら、エルサレムだけで終わってしまう話だったのかな、とも思います。
「できるのに、しない」ことってたまにあります。例えばですが、先週しゅろの十字架をみんなで作りましたよね。あれ「効率」とかを考えるのでしたら、できる数人で作って、それ以外の人にはほかのこと(掃除とか)をしてもらったほうがいいんです。でも、そうではなくて、みんなでワイワイしながら、教えたり教えられたり混乱したりしながらみんなで作っていました。この教会にとってはそのほうが良いと考えてそうしているわけです。(もちろん教会の状況によっては違う選択肢もあり得ます)学校などでもそうですが、子どもたちにわざわざ学問やら作業やらを教えなくても、できる人だけでやれば、みんな遊んでいても構わないといえば構いません。でも、そうしていないですよね。このようにして「できるのに、しない」ことによって、人は何かを受け継いでいくことがあります。神さまも、人間に対して「できるのに、しない」ことによって、何かを教えて受け継いでもらうのかな、と思うのです。もちろん「できるのに、しない」だけで終わるのではなく、イエスの場合でしたらその後に弟子たちが、イエスの教えを言い広めたことで、神さまの考えていることが、神さまの創造された世界に必要なことが伝わっていくわけです。アフターフォローもきちんと行っているわけですね。そしてその「教える」ことを託された弟子たちも、完璧にできるのではなく、間違えながら、悩みながら神さまのことを伝えていったのです。そしてそうやって伝えられて、多くの人ができるようになることが、世界のために大事なことなのだと思います。義務教育で必要な学問を身に着けることで、多くの人たちが自分に行きやすい道を選ぶことができるように、神さまに従う生き方を多くの人が学ぶことで、それ以上に多くの人が生きやすくなるのです。
イエスはピラトに問われても何も答えませんでした。「○○しない」ということは、実は強烈なメッセージになります。しかもそれは、よく考えなければわからないことです。「なぜ○○したのか」だけではなく「なぜ○○しなかったのか」と考えることが、わたしたちの思考の範囲を広げると同時に、わたしたちの生き方を広げていくのです。何よりそう考えることで、神さまが考えていることの広さを知ることができるのです。考えることの大切さを知りながら、来週の復活を迎えましょう。