何度でも生まれる
ヨハネによる福音書 3章1~17節
大斎節も第2主日に入り、本日の福音書はイエスとニコデモの対話。夜イエスのもとにやってきたニコデモがイエスに問いかけます。ここでイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言います。
ここでイエスが言う「新たに生まれる」というのは、単純に「生まれ直す」とか「生まれ変わる」ということではありません。「水と霊によって」というイエスの言い方から察するに、これは「洗礼によって生まれ変わる」ということになります。「洗礼」は、今でこそ「洗礼盤から水を少し頭にかける」「滴礼」という方式で行われていますが、イエスの時代の洗礼は「ヨルダン川に身を浸す」という描写もあるように「体を水に沈める」「浸礼」が普通でした。(「水場に立って頭から水をかける」「灌水礼」というのもあります)体を水に沈める、しかも自分の手ではなく、誰かの手で沈められるのです。洗礼とは、まるで溺死させられるかのような体験のことでもあったわけです。そして洗礼ではその後、水から誰かの手で引き上げられるわけですが、これが「一度死んで生まれ変わる」ということでもあったわけです。もちろんこういう「浸礼」の形を今でも行っているところもあるわけですが、別にそれが必須というわけではなくて、「洗礼」という行為そのものに、「一度生まれ変わる」という意味があるのです。(水が潤沢に使えない地域もありますからね)また、みなさんは堅信式を受けられていると思いますが、堅信式のことを「霊による封印」という言い方をすることがあります。これは「洗礼の恵みを、霊によって封印する」ということで、要するに「水」が「洗礼」、「霊」が「堅信」と分けて考えているのですね。「水と霊によって新たに生まれる」というのは、こういうことです。
しかし一方で、洗礼は「一度きり」の行為でもあります。何回も洗礼をすることを、教会は禁じています。例えば通う教会が変わったとしても、基本的にどこへ行っても「洗礼」は有効であり続けます。わたしたちにとっては、たとえ記憶では遠くても、イエスの言う通りに「水と霊とから生まれた」大切な経験です。だからこそわたしたちはどこへ行っても神の国につながっているので大丈夫だというわけです。
さて、そうは言ってもわたしたちは神ではなく、簡単に忘れてしまったりする生き物です。洗礼を受けた時の記憶も、幼児洗礼だったりもすれば、完全に記憶のかなたでしょう。あまりにその記憶が遠すぎると、大切なことのはずなのにすっかり遠ざかってしまうことにもなりかねません。だからこそ今、わたしたちが取り組んでいる「大斎節」が大事であり、「復活日」の岩井が大事でもあるのです。この教会ではあまり使うことがありませんが、制土曜日の礼拝の中に「洗礼の約束の更新」という式文があります。これは、わたしたちが洗礼を受けたことを今一度思い出し、その事実を毎年確認するためのものです。これによってわたしたちが「生まれ変わった」者であって、神の国につながっていることを確認するのです。実にわたしたちは何度でも生まれ変わることができるのです。
大斎節は、わたしたちにとって、ある意味「死の期間」かもしれません。イエスが四十日四十夜荒れ野で断食していたことがベースになっているからです。この時期を過ぎれば、わたしたちもまた「新たに生まれる」ことができます。その時のために、わたしたちは、わたしたちの信仰や生き方を見直すのです。この大斎節が、わたしたちが信仰と生活を整える大切な時として伝えられていることを忘れず、あと5週間ほどの大斎節を過ごしていきましょう。