光について証する
ヨハネによる福音書 1章6~8,19~28節
本日の福音書はヨハネによる福音書の冒頭部分から洗礼者ヨハネについて言及されている部分が読まれます。洗礼者ヨハネは「光ではなく、光について証をするために来た」と言われます。実際自分も「わたしはメシアではない」とはっきり言いきっています。ほかにもいくつか名前が上がりますが、これらの人々は「世の終わりの前に来る」と言われていた人々であり、ヨハネはこれに対しても「わたしはそうではない」とはっきりと言い切ります。では誰なのかと問われると「わたしは荒れ野で叫ぶ者の声である」と言うのです。そして、ヨハネは「光について」証をするのです。
「証をする」という言葉遣いは、しばしば教会の中で用いられることがあります。もちろん、場合によっては全然使われないので、「聞いたことがありません」という人もいるかもしれませんね。「証」というのは、教会の中では一般的に「自分のことについて話す」というような意味でつかわれます。「自分のこと」というのは、例えば「どうして教会に来たのか」とか「信仰を持つようになってこう変わった」だとか「こんなできごとがあった」というようなことを「信仰」や「神さま」に結び付けて話すということです。本来は「自分の普段の信仰生活」を語る、というような意味ですから「特別なこと」がなければ語ってはいけない、ということではありません。また「語る」だけが「証する」方法ではなく、「行動」をもって「証する」こともできます。自分の行動を「信仰」によって変えていくこと、具体的には「イエスに倣って」生き、神さまと人と、この世界を大切にしていくこともまた大切な「証」となります。その行動は「祈り」かもしれないし、例えば「毎朝通学路を掃く」というようなことかもしれないし、地域のボランティアに取り組むようなことかもしれません。他にも、神さまの呼びかけに答えて自分の仕事を全うすることかもしれません。どんなことでも、それを「信仰」によって行うのなら、それは大切な「証」になります。
さて、洗礼者ヨハネは自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ者の声」だと言い、「洗礼」をヨルダン川のほとりで授けていました。言葉でも、行動でも、自分の「神への信仰」はこうだ、とはっきりと伝えます。そして何より大切なのは、ヨハネは「神」になろうとしなかったことでしょう。実際、洗礼者ヨハネは人気がありました。少なくとも多くの人々がわざわざ普段は恐れて近づかない荒れ野に行って洗礼を受けようとするほどの人気です。のちにヘロデ王も無視できずに、捕えて牢に入れるほどの人気です。だからヨハネは、自分が「神」とは言わないまでも、それなりのグループを立ち上げて「長」になることはできたはずです。しかしヨハネはそうせず、「自分の後から来る光」について語り、あまつさえ自分の弟子たちさえもイエスのもとに遣わしたうえで、表舞台から退場していきます。
「光」とはイエスのことです。そして、「光について証をする」というのは、実はわたしたちにも関係があることです。なぜなら、キリスト者として洗礼を受けた人の大切な務めのうちの一つが「信仰を証すること」だからです。つまり、わたしたちはヨハネと同じく、「光」になるのではなく「光について証をする」者なのです。だからこそ、言葉で、行動で、わたしたちがキリストに倣うものであることを「証」することが大切です。先ほどもお伝えしていますが、特別なことをする必要はありません。わたしたちの普段の生活の一つ一つの判断を、「キリストに倣って」するように務めることです。もちろん、うまくできないこともあるでしょう。しかしそれでも、そうしようとする私たちに神さまは力を貸してくださいます。キリストに倣って、今日も明日も、歩み続けましょう。