共に囲む食卓

2023年04月23日

ルカによる福音書 24章13~35節

 「キリスト復活!」 さて、復活日から2週間が経過しました。今日の福音書は「エマオへの道」。エルサレムからエマオへ向かう途中の二人の弟子が復活の主と出会い、同道しますが、イエスであることに気が付かず、宿につき、パンを割く姿でイエスと気が付く、というお話。二人は「わたしたちの心は燃えていたではないか」と言いあいます。復活後、イエスはあちこちで弟子たちに現れますが、今日の福音書もそういった場面の一つです。こうやって、たくさんの弟子たちの心を燃え立たせていったことで、今日の教会があるのだなと思わされます。

 今回わたしが大切だなと思うのは、この二人の弟子がイエスだと気が付いたのが食卓を囲んでいるときのことだったということです。歩いているときでも、話しているときでも、聖書を解き明かしてくれているときでもなく、宿に泊まって食卓を囲んでいるときなのです。

 わたしたち人間にとって「食事」は欠かすことのできないものです。「食事」は単なるエネルギー補給というだけではありません。何人かで「食卓を囲む」時は、わたしたちの人生を豊かに彩ってくれるものです。

 忘れがちですが、わたしたちが普段行っているこの「聖餐式」は、今でこそ儀式的になってしまっている部分も多いのですが、本来は「食事」です。ここに出席している全員で囲む食卓なのです。まぁ、実際には長い歴史の中でたくさんの作法ができて、こんな感じになっていますが、確かに「食卓」なのです。礼拝堂のつくりから言っても正直なところ「囲む」という感じは薄いのですが、教会が始まったころの「家の教会」と呼ばれる小さな教会では、部屋の真ん中の聖卓を囲むようになっていましたし、今の新しい礼拝堂では「聖卓を囲む」ように設計されることもあります。残念ながら今の礼拝堂では「囲む」というのは難しいのですが、「わたしたちはここで、出席している全員と、食卓を囲んでいるのだ」という意識を持っていただけたらいいなと思います。説教や聖書の言葉ももちろん大事なのですが、イエスのことがわかるのは「食卓を囲む」時なのです。だからこそ聖餐式が大事にされるのであり、礼拝の中心に「聖餐」があるのです。

 この3年ほど、新型コロナウイルスの流行もあり、教会から「愛餐会」が失われていきましたが、みなさん、なんか元気が出なくありませんでしたか。教会は「一緒に食卓を囲む」ことによって維持されてきたんだなぁと思います。本来その食卓は「聖餐」なわけですけれども、3世紀くらいにはもう儀式化されていて、実際におなかを満たす「食卓」、所謂「愛餐会」も「聖餐式」の後に行われていたようです。教会は「聖餐」と「愛餐」の2つの食卓によって維持されてきた部分も多くあるのでしょう。イースターの時に久しぶりに、短い時間ですが一緒に「食卓を囲む」ことができました。小さな集いでしたが、少しずつわたしたちも「食卓」を取り戻していきたいと願っています。

 そして、何より大切なのは、わたしたちが「主の食卓」、つまり「聖餐式」をもっと「食卓」として意識して、復活の主をお迎えすることです。復活の主は、祈るわたしたちの真ん中に姿を現します。「食卓を囲む」時に姿を現します。この「聖餐式」「主の食卓」は、今ここにいる人だけのものではないという意識を持つこともまた大切です。今日来ることができなかった人々も、天の国に先に行った人々も、一緒に食卓を囲んでいるのです。この聖卓は「天の国」への入り口です。ここからいつも天の国につながっているのです。そういった特別な「食卓」であることを意識して、この後の聖餐式を続けていきましょう。

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