内輪もめ
マルコによる福音書 3章20~35節
本日の福音書は「ベルゼブルについて」、そして「イエスの母、兄弟」についての問答です。今日は前半部分を見ていきましょう。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とありますが、要するにイエスの活動は身内の人に全く理解されていなかったということです。エルサレムから下ってきた律法学者たちもまた、イエスを理解しようとしない人たちでした。イエスのことを「ベルゼブルの力を使っている」と貶める律法学者に対して、「内輪もめでは立ち行かなくなる」=「イエスは悪魔ではなく聖霊の力を使っている」とイエスは反論します。
内輪もめというのは割とどこでも起こることです。イエスは「国が内輪で争えば、その国は立ち行かない」と言っていますが、確かに歴史を振り返れば多くの国が内輪もめで滅びてきました。今でこそ「国」が安定していることが多く「滅びて無くなる」というところまではいかなくなりましたが、内乱の結果、秩序が崩壊して国の体を保っていない地域がまだ世界中にいくつもあります。キリスト教国だって例外ではありません。そもそも宗教に「教派」や「宗派」があるのも、ある意味「内輪で争った」ことの結果です。そもそもわたしたちが属する「聖公会」も様々な事情で現在も「内輪で争う」状態です。そして、個々の教会の状態に目を向けても「内輪で争う」状態の教会はいくらでもあります。もちろん「争う」原因にもいろいろあり、「争うこと」そのものが悪いというつもりはありません。無理に片方が意見を飲み込みながらまとまっているのなら、それはもう別れているのと同じことだと思います。だからこそお互いに「意見をぶつけ合う」ことも確かに必要です。大切なのは「争い」までいかないようにすることだと、個人的には思います。
では「争い」にならないためにどうしたらよいでしょうか。一つ忘れてはならないのは「大きな目的」です。わたしたちキリスト者にとって大切なことは「この世界を神の国に近づける」ことだと思います。「神の国のために奉仕」し、「イエスに倣って」歩みます。もちろんそれぞれのやり方があって構いません。わたしたち一人の力ではできないこともたくさんありますし、物理的な制限もありますから。
では「神の国」とは何かと言われると、意見百出となって、同意できるものとできないものに分かれてしまうのでしょう。ある人にとっての神の国は「律法による秩序立てられた世界」ですし、ある人にとっては「律法などの決まりから解き放たれた自由な世界」です。これだと完全に正反対に見えますよね。しかしどちらも今日の特祷にあるように神によって「み摂理のもとに安らかに治められ」た世界なのだと思います。今激しく束縛されている人にとっては「解放」ですし、今無秩序に悩んでいる人にとっては「秩序の確立」になるでしょう。でも、それがどんなものなのかはわたしたちにはよくわかりません。神さまに「示してください」と祈ることしかできません。
でも一つ言えることがあります。それは「自分の目の前の人に手を差し伸べることに変わりはない」ということです。今、ここで困っている人に手を差し伸べるのです。思想信条や見た目や国籍、性別などを確認してからではなく、それはいったん置いて、まず手を差し伸べるのです。「イエスさまならそうした」と思えるように行動することです。教会の中で内輪で争うのではなく、自分の意見を声高らかに主張して押し付けるのではなく、自分の意見を殺して押し黙るのでもなく、まず「共にある」ことができるようになりたいと思っています。神さまのもとに、安心して共に集うことができる場所としての教会を形成していきたいと願っています。