再臨を祝う

2024年12月01日

ルカによる福音書 21章25~31節

教会は今日から新しい一年が始まります。教会の一年の始まりはクリスマスを迎える準備の「降臨節」から。福音書はルカに移り、世の終わりについてのイエスの話が読まれました。イエスは「このようなことが起こるのを見たら」と繰り返し警告しています。

「すべての木が葉を出し始めると夏が来る」というのは、少し考えれば誰でもわかることでしょう。完全に引きこもって外に出ないならともかく、わたしたちの普段の生活の中でもわかることですね。月が経てば、行きつ戻りつすることはありますが季節は進んで巡っていくものです。ごくごく当たり前にある生活の中で、人々はこういった季節の移り変わりのしるしを言い伝えてきました。例えば「夕焼けだから明日は晴れ」とか「猫が顔を洗ったら雨」とか「雷が鳴ると梅雨明けが近い」とか「雪虫が飛んだら雪が近い」とか、多分地域によってもたくさんあるのだろうと思います。もちろん科学的に正しくないことも、実証されていないものもあるのですが、確かにこうやって、人はしるしを見分けながら生活しているのです。

しかし一方で「太陽と月と星に徴が現れる」とか「海がどよめき荒れ狂う」と言われても困ってしまいます。例えば「太陽フレア」のニュースだとか「超新星爆発」のニュースだとか「スーパームーンになった」というニュースもありますし、海は天気が悪ければ大荒れで、教会からも海鳴りがよく聞こえます。だからある意味すべて当てはまっているわけで「そろそろ世の終わりが近いのか」「イエスさまが再び来られるのか」と思い詰めたりしてしまいそうですね。いや、そこまで真剣に考えていないかもしれませんけど。また何回も言っていますが「世の終わりが近い」という言説をする人はいつの時代もいるもので、だからかなんとなく「まだ来ないでしょ」という気になってしまったりもします。ここで大切なのは、イエスが「身を起こし、顔を上げなさい」と言っていることです。そうこの「世の終わり」は「イエスの再来」でもあるので、わたしたちにとっては「救い」の時でもあるからなのです。それまでわたしたちがすることは「徴」を見分けるようにすること。そして、その「徴」に一喜一憂せずに日々を過ごすことなのだと思います。

「世の終わりが来る」というと、なんとなく悲惨な未来を想像してしまいます。でも本来、世の終わりというのはイエスの再来であり、待ち望むべき「救い」でもあるはずです。神の国が現出し、神の秩序が支配し、顔から涙がぬぐわれるときだからです。だから、なんとなく世の中が暗いような気がしても「身を起こし、顔を上げること」が大切です。「お先真っ暗」と思いながら顔を伏せているよりも、「主が来られる」と顔を上げて振舞うことで、わたしたちは主を「世に示す」こともできるのです。

これから「クリスマス」がやってきます。「クリスマス」はイエス誕生のお祝いであると同時に、イエスが「再び来られる」ことを確認するための教会の期節です。これを「再臨の予型」なんて言い方をすることもあります。そう「イエスが再び来られる」ことは、「恐ろしい」ことでもありますが、わたしたちにとっては「喜び」でもあるのです。だから、どんなに世の中が暗くても、わたしたちの周りで悲惨な出来事があったとしても、わたしたちはクリスマスを祝い続けます。さぁ、クリスマスの準備は整って、再びイエスがやってきます。実際のその時がいつになるかはわかりませんが、今はクリスマスを祝いつつ、イエスの再臨を祝う準備をし続けましょう。


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