刺激的な言葉
ヨハネによる福音書 6章53~59節
本日の福音書は先週に続き「イエスは命のパン」とタイトルがつけられているところです。イエスが「わたしの肉を食し、血を飲むことで永遠の命を得る」と言ったことで、ユダヤ人たちも議論し始めます。
わたしたちにとっては「これは聖餐式のことです」と言ってしまえばそれまでのような気がしますが、イエスの十字架を知ってのことなので、ここのユダヤ人たちに当てはまらないのは明白です。なぜ理解しないのだと思っても、十字架の出来事もまだですし復活も来ていません。そもそも最後の晩餐すら行われていない状況ですから、どうして理解することができるでしょう。コペルニクス的転回とも呼ぶきっかけというのは、本当に予想がつきません。わたしたちは東日本大震災を通して津波の怖さ、原発の怖さ、備えの大切さを知りました。もうそれ以前の少し気楽な感じには戻れません。コロナを経験して、マスクが当たり前の世の中になりましたが、もう前のように感染対策一切なしでという状況にはどうやら戻れなさそうです。こうやって世の中は大きく変化していくものです。「イエスの十字架と復活」を知っているか知らないかというのはとてつもなく大きなことだと思います。
何かを訴えるとき、刺激的な言葉を使うことがあります。一つの技法なので、必ずしも否定するわけではないのですが、使い方をきちんと考えないと逆効果になってしまうこともありますよね。また逆にわたしたちが刺激的な言葉、物言いに接したとき「何を言おうとしているのか」をよく見なくてはならないでしょう。
イエスが使っている言葉遣い、「聖餐のことだ」というわたしたちの知識を外して考えるとどうでしょう。結構刺激的だと思いませんか。「え、この人、人肉食を勧めているのか」と思ってしまいそうです。実際キリスト教がローマ帝国に伝わった初期のころ、「明け方に集まって子どもの肉を食べているやばい宗教が来た」と言われていたこともあったようです。特にごく初期のころは、信徒しか聖餐式に参加できず、公認宗教ではなかったため、信徒の家にひっそりと集まって礼拝していたのでこう思われやすかったというのは理解できます。しかし今はそんな時代ではありませんよね。誰もが礼拝を経験できるし、なんならインターネット上で見ることすらできます。また、キリスト教のことを解説した本もたくさん出ています。誰でも知ることができるわけです。しかしその一方で「知ろうとしない」とか「全然触れてこなかった」という人もまだたくさんいるということを、わたしたちも知っておいたほうがいいと思うのです。刺激的に受け取られることがまだ多いのです。
わたしたちが普段触れている聖書は、わたしたちにとっては慣れてしまっていますが、結構「刺激的な言葉」であふれています。何気なく「ああこうだよな」と通り過ぎてしまっていますが、実はたくさんの知らずに聞けばとんでもない言葉がたくさんあります。だからこそわたしたちは、その言葉をきちんと「こういう意味ですよ」と学んだうえで、人に伝えることもしなくてはいけません。そして「知らない」時にどう思うのかということに敏感でありたいと思います。「教会」が「理解している人だけ」の集まりならば、そんな努力はしなくてもいいと思います。しかしそうではありません。わたしたちはこの世にあって、イエスが言ったようにこの世を神の国に近づけるようにしていくことが大事な目的だからです。「刺激的な言葉」には「きちんとした解説」と「落ち着いた見方」が必要です。ただ刺激の赴くままに進むのであれば、ユダヤ人たちを扇動した大祭司と変わりがありません。「刺激」をどのように着地させていくのか知恵を絞りながら、歩んでいきましょう。