呼びかけに耳を澄ませて
ルカによる福音書 5章1~11節
顕現後の週も5回目に入り、本日の福音書は「漁師を弟子にする」場面。ガリラヤ湖のほとりに着たイエスは網を繕う漁師たちに出会い、彼らに命じて船をこぎださせ、ついてきた群衆を教えます。そしてそのまま漁をするように漁師たちに言います。漁師たちは「多分捕れないだろう」と言外に言いながら「あなたが言うのなら」と湖に網を降ろすとたくさんの魚が捕れ、漁師たちは驚き、「人間をとる漁師にする」というイエスに全てを捨てて従います。
四人の漁師を弟子にする話は、ヨハネによる福音書を除くすべての福音書に記されていますが、このルカの話だけ少し違います。他の二つの話は「人間をとる漁師にしよう」と言われて従うだけなのですが、ここでは「網を降ろして漁をしなさい」とイエスが命じ、「あなたが言うなら」と漁師たちが従ったら魚が捕れたというやり取りが加わっています。
漁師たちは専門家です。勉強をしたわけではないでしょうが、ずっとそこでそれこそ毎日漁をしているわけで、どの時間には魚が多くて、時期はこうで、ということを良く知っていました。だからこそイエスの指示に「夜通し漁をしたけど捕れなかった」と答えています。普通はここで終わりですよね。経験則上、うまくいかないことはわかっているわけです。だからいう通りにしないのが普通です。しかしその一方で彼らは「お言葉ですから」とイエスの言葉に従うのです。
なぜそうしたのでしょう。でも、ここで彼らがイエスに従わなければ、この話はここでおしまいです。ドジな一番弟子シモン・ペトロは登場せず、別の人がその役割を担ったのでしょう。もしかしたら十字架もなく、教会も全然違う形になっていたのかもしれませんね。わからないことですが、イエスは漁師や農夫たちにたくさんこうやって声をかけていたのかもしれません。でも、従ったのがシモン・ペトロたちだけだったから、この話が今に伝わっているのかなとも思います。だいたい「人間をとる漁師になる」って、ものすごく怪しい呼びかけですよね。単純に考えれば人さらいに聞こえてしまいます。でもそうではなくて、シモン・ペトロにとっては「特別な呼びかけ」に聞こえていたのでしょう。「お言葉ですから」と軽く言っているように聞こえますが、これは「他ならぬあなたが言っているから」ということでもあります。イエスの呼びかけは弟子になる者たちにとって特別なものなのです。だからこそこの後も、イエスに従う弟子たちは「わたしに従いなさい」という一言で、イエスに従っていくのです。
ということは、わたしたちにとってもイエスの呼びかけは特別なものだということです。だってそうですよね。神さまからの呼びかけが、イエスの呼びかけが「自分に向いているのかな」と思ったから、それを確かめるために、あるいははっきり確認してここに足を運んでいるのだと思うのです。
神さまの呼びかけは今もわたしたちに向かって行われています。もしかしたら時に「○○したんだけどな」と思うような、自分の経験則からはみ出すような呼びかけかもしれません。そしてその呼びかけは、誰か自分の思ってもみない人からのものかもしれません。神さまは誰の口をも使いますから。その言葉が神さまからの呼びかけかどうかは、それに従って実行してみて、しばらく経ってみた後にしか気づくことはできません。残念ですが先にわかる方法はないのです。当たり馬券だけ買えればいいのですが、それって不可能ですよね。神さまからの呼びかけに耳を澄ますのは難しいことです。でも、「神さまはいつでもどこでも呼び掛けてくださる」と思っているだけで、ちょっと普段の視野が広がるような気がするのです。