商売の家としてはならない
ヨハネによる福音書 2章13~22節
本日は大斎節第3主日。今日の福音書はヨハネから、宮清めの部分。神殿の境内で商売していた商人たちをイエスが追い出します。この話はどの福音書にも入っており、筋書きもほぼ一緒なので、重要だと思われていたのでしょう。
このいわゆる「宮清め」の話のポイントはいくつかありますが、一つは商人たちの商売が、ある程度「人々の必要から起こっていたこと」だったということです。神殿はイスラエルの貨幣でしか献金を受け取りません。ところが普段流通している貨幣はローマやギリシャのものなので、どうしても両替する必要があり、そのためには「神殿で両替できるのが一番助かる」というのはよくわかります。また、焼き尽くすいけにえなどに使う動物を、遠方から連れてくるのは大変なので、こちらもやっぱり現地で調達できるほうが楽です。だからこれらの商売が起こるのは必然でした。神殿としてもそのほうが楽なので、神殿の境内地で商売させたわけです。ただ、やはり商売は商売ですから、どうしても「儲けたい」という思いが出てきてしまうものです。そうすると「祈り」の場所も、「商売」に侵食されていってしまいます。最初は「必要」だったことで始まったものが、いつしか本来の目的である「神に祈ること」「神と出会うこと」よりも「必要」が優先になってしまったことに問題があります。
「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである」と書かれていることからも考えてみましょう。「体」というのは、一番小さな神殿です。神に祈り、神と出会い、そして何より私たちの体には聖霊が宿っているのです。だからわたしたちの体は「一番小さな神殿」なのです。その神殿は、神さまに向かって生きるよう、わたしたちを促していますから、わたしたちは「神さまに祈り」「神さまと出会い」ながら「神の国の実現」のために働くように招かれています。しかし一方で、わたしたちは普段生活しています。生きなくてはいけないので、わたしたちの体は「生きる」ために「商売」をしたり「仕事」をしたりします。「祈る」だけでは残念ながらこの世の中で生きていくことはできません。まず「生きて」そしてその体を「維持するための活動」をしなくてはならないわけです。ところが、だんだんと生活をしていくと、わたしたちの体も「祈る」ことが大切だとは知りながら、いつの間にか「商売」や「仕事」のほうがメインで、「神に祈る」「神の国のために働く」ということから遠ざかってしまうことがあるのです。体を維持できなければ祈ることすらできないのですが、一方で「祈り」とか「神さまと出会う」ということが、わたしたちの生活の中で、あまりに小さな割合になってしまってはいないか、ということです。
わたしたちは「祈り」を忘れてしまうことがよくあります。日曜日だけクリスチャンで、ほかの六日間は「仕事」や「商売」なのではなく、わたしたちは「神さまのほうを向いて生きる」ために「仕事」や「商売」をしているのだということを忘れないことが大切です。だからこそ必要なのはわたしたちの普段の生活の中に「祈り」を取り入れることです。一人の時でも食前にお祈りしたり、寝る前にお祈りしたり、できることはたくさんあります。わたしたちの「体」という小さな神殿も、祈らなければ宝の持ち腐れです。「祈りつつ働く」というのは難しいとしても、日々「祈り」に始まり「祈り」に終わることを大切にしてほしいと思います。
大斎節はこのことを思い出す期節です。少しずつの祈りを持ちつつ、わたしたちの体という神殿を、少し清めてみましょう。