因果応報を越えて
ヨハネによる福音書 9章1~13,28~38節
大斎節も第4主日に入り、本日の福音書はイエスが生まれつき目の見えない人をいやす話。そしてそれに続いてファリサイ派の人々との論争が描かれます。
この当時のユダヤ教は事故やケガ、障がいなどのことを「祖先の罪」や「本人の罪」という形で理解していたようです。何か悪いことが起きれば「罪の結果だ」としていたのです。だからイエスの弟子たちもイエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と問いかけています。忘れがちですが、イエスも弟子たちもユダヤ人ですから、その倫理観・世界観の中で生きていましたから、こういった疑問を持つのは当たり前です。それに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と喝破していますが、この考え方はとても大切です。弟子たちの質問のような「因果応報」の考え方というのはわかりやすいのですが、イエスはここで否定しています。本当に「誰が悪いわけでもない」問題は世の中にたくさん転がっています。
わたしたちはついつい色々な出来事や事実をつなげて考えてしまいがちです。もちろん、きちんと因果関係になっている場合も多いのですが、そうではなくて、全く関係のないことを結びつけてしまうこともあるのです。例えば、わたしは本気であきれ果てたのですが、とある方が東日本大震災の時に津波で流された人たちに対して「罪深い人たちだったから」という発言をしたことがあったのです。そんなバカな。その他にも例えば、冷静に考えると違うのですが「北朝鮮の人たちはみんなおかしい人だ」というような言動がインターネット内で聞かれることもあります。為政者に問題があるのは確かでしょうが、人ひとりひとりは良い部分も悪い部分もあるというのが当たり前のことです。世の中「因果応報」という概念だけで簡単にくくれるものではないと思います。
そんな中で、今日の福音書の「目をいやしてもらった人」の言ったことは、わたしたちにとって大切です。ファリサイ派の人からイエスは罪人だと聞いての答えですが「あの方が罪びとかどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」という答えです。因果応報ではなく「目が癒された」という「事実」に目を留めるのです。今、目の前で起きている出来事に目を向けるということです。原因や意図ではなく、今、そのことが行われているという事実こそが大事です。「やらぬ善よりやる偽善」という言葉もありますが、今、ここで行われていることにまず目を止めること。「こうあるべき」ということではなく「今こうなのだ」という動かせないことから始めていくことです。
組織というのは時々「理想」に燃えてしまい、今起こっていることから目をそらしてしまうことがあります。特に「因果応報」の考え方だけでやってしまうと、本来その組織が設立された目的からそれてしまうこともあるのです。教会も「あの人たちは罪深い人たちだから支援しない」というようなことを言う時があります。でも、そんなこと誰がわかるのでしょうか。「余裕がないから支援できない」というのはわかるのです。そうではなくて「罪の深さ」で測ることが、果たしてわたしたちに可能なものでしょうか。逆に、わたしたちが人の「罪の深さ」を図ることができると考えること自体が「罪」になってはいないでしょうか。そうではなく、わたしたちが今ここで起きている出来事に対して目を向け、そして手を差し伸べていくことが大切なのではないかと思うのです。因果応報を事実で越えていくことを大切にしていきたいなと思うのです。