基礎基礎基礎基礎
マタイによる福音書 16章13~20節
本日の福音書はペトロの信仰告白。「人々は、私のことを何者だと言っているのか」というイエスの問いに対して弟子たちは「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」などの名前を挙げ、最後にペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言います。そこでイエスはペトロに祝福を与えて「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。あなたが地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは天でも解かれる」と言います。この個所はカトリック教会が「教皇(ローマ法王)の首位権」を主張する根拠にもなっています。
「ペトロ」というのはイエスの名付けた「あだ名」です。「岩」という意味があります。本名は「シモン」ですね。さて、ここで言及されているのはペトロのことで間違いないとは思うのですが、これを「ペトロ一人の信仰」と考えるのは少し行きすぎなのかなと思います。「あなたはメシア。生ける神の子です」という信仰告白は、この時点ではペトロがしたわけですが、使徒たちにとっては共通の認識ですし、わたしたちにとってもこれは大切な「基礎」です。というよりも、この認識がないのであれば、クリスチャンではありえないからです。この「岩」は、わたしたちも持っているべきものなのです。だからこそこの「岩」はペトロだけに帰されるのではなく、わたしたち全員に関係があることです。もちろん最初にペトロが来るのは良いのですが、ペトロだけのものではなく、わたしたち一人一人が「ペトロ」から「岩」を受け継いでいると言えるのです。
家や建物を建てる時「基礎」はとても重要です。基礎がしっかりしていないと、この地震の多い国では建物が崩れてしまいます。また、湿地などでも建てる時はしっかり岩盤まで基礎を通さないとやはり地震の時に建物が沈んでしまったりすることがあります。それこそ「岩」の上に建てるというのは、工事技術がない時代には大切なことだったでしょう。
わたしたちの「信仰」はこの「岩」の上に立っています。ところが「基礎」としての「岩」がしっかりしていないと、信仰は揺らぎ、時にその「基礎」まで割れてしまうことがあります。「基礎」がダメになってしまうと上に立った建物は傾き、人が住めなくなってしまいます。「信仰」も立ち行かなくなってしまうのです。
勉強もスポーツなどの活動もそうですが「基礎」をどのくらいきちんと構築したかでその後の習熟度だったり、成績だったりが変わってきます。当然ですが「基礎」がしっかりしていればその後の理解も早いのですが、「基礎」がわかっていないと途中でつまずいてしまうことが良くあります。わたしは「信仰」も同じであると思っています。「信仰」の「基礎」がしっかりしていると、わたしたちは少々のことでは揺らぎません。しかししっかりしていなければ「信仰」を失ってしまうことすらもあり得ます。しかし一方で「基礎」がしっかりしなくては信仰を持てないということでもありません。信仰の道を歩みながらも、「何か変だな」と思ったら「基礎」に帰ってくることが大切です。信仰の「基礎」とは「イエスが救い主である」という告白です。そこに帰るためには「祈り」「聖書を読み」そして「イエスに倣う」ことです。基礎練習は単純なことの反復なので、時に嫌になってしまうかもしれません。そして基礎練習は地味なものです。けれども、愚直なまでに信仰の基礎に立ち戻ることこそが重要です。ペトロもたくさんイエスに怒られながら、そのたびに信仰の基礎に立ち戻ってきました。だからこそ一番弟子とも呼ばれるのです。わたしたちもペトロに倣い、失敗したとしても何度でも基礎に戻って、信仰の土台を固めつつ進んでいきましょう。