宣教という非効率なやり方によって
ルカによる福音書 4章1~13節
本日は大斎節第1主日。今年はルカによる福音書から悪魔の誘惑が読まれます。40日40夜の断食の最中、そしてその後もイエスは誘惑を受けられます。「石をパンに変えること」「世界の国々を支配すること」「神殿の屋根の端から飛び降りること」の三つの誘惑をイエスが退けると、悪魔は時が来るまでイエスを離れたと聖書には記されています。
この誘惑は、「石をパンに変える」のが社会的な誘惑、「世界の国々を支配する」ことが政治的な誘惑、「神殿の屋根から飛び降りる」のが宗教的な誘惑と説明されます。なるほど、石をパンに変えることができるのなら、この世の食糧問題は簡単に解決しそうですし、世界中のみんながイエスなしでは生きられなくなるでしょう。効率よく世界に福音をもたらすことが大切ならば、この世全ての国を支配してしまえば、もう誰もイエスのことを無視できなくなるでしょう。超自然の力、奇跡を見せつければ「証拠を見せろ」といつも言う人たちをも簡単に信じさせることができるでしょう。そして確かに、イエスにはこれらのことを行う力があるのです。なるほど、「あらゆる試みを終えた」と書かれているのも納得です。確かにこれらのことが行われるのなら、神さまが目的としている、世界中に福音を告げ知らせることも簡単に達成して、世界は神の国へと生まれ変わるでしょう。とてもいいことではないですか。なんでそうしてくれなかったんだろうとまで思ってしまいます。だってそうでしょう。そうであれば、今、みんながこんなに苦しむこともなかったのに。しかし、そうなってはいないのです。残念ながら。
これらの誘惑を眺めていて思うのは、「誘惑」というのはわたしたちを「悪いところ」へ誘ったり、「下がるように」されたりするのではないということです。むしろ「良いこと」や、「スピードを速める」ことや、「高める」ように見えることの中で行われます。わたしたちが力を発揮すればできることだったりするのです。エデンの園でイブを誘惑した蛇は何と言ったか。「悪魔のようになりたくないか」ではなく「神のように善悪を知る者になりたくないか」と言ったのです。人間は「良い」ことをしていると思うと、心のブレーキが壊れるように思います。「正義」が周囲を蹂躙していったことは、人間の歴史を紐解けばいくらでも出てきます。「明白な運命」と言いながら先住民を蹂躙しながら開拓していったアメリカ、「神の都を取り戻せ」とパレスチナへ進撃した十字軍、「大東亜共栄圏」という理想を唱えながら植民地を広げた日本。「承認欲求」もそうでしょう。「自分はこれだけできる」「すごいと思われたい」と、自分の能力を最大に発揮して認められたい、そんなところに誘惑は働きかけてきます。「あなたはもっとできる」というのは、励ます言葉でありながら、誘惑をもたらす言葉でもあります。力が強ければ強いほど誘惑も大きいのです。
イエスはこれらのことがすべてできたはずですが、そうせず、ガリラヤに立ち去りました。そして「宣教」という非効率なやり方で、しかもガリラヤというイスラエルの片隅から始めたのです。誤解も受けやすく、間違いも多く、広まるのに時間もかかります。でも、それでいいのかもしれません。加速し続けている世界の中で、しばしば教会も効率よく変わることを求められますが、変わらないこともまた大切なのだと思います。そうかと思うとゆっくりじっくり、時間をかけて変化していくこともあります。却ってそれが自然で、それでいいのだとも思えます。
大斎節が始まります。世界は効率を追い求めていますが、わたしたちはじっくり行きましょう。わたしたちの心に戻り、今一度、祈りと学びという非効率なやり方で、一歩ずつ進んでいきましょう。