寂しいところで祈る
マルコによる福音書 1章29~39節
本日の福音書ではイエスが、シモンのしゅうとめをはじめ、多くの人をいやした後、人里離れた寂しいところで祈ってから、ガリラヤ中の町に出かけていきます。そしてそこで宣教し、悪霊を追い出したと記されています。イエスの活動は「悪霊を追い出すこと」と「癒し」が中心でした。また、その合間にたくさんの人を前にして語りかけるのです。こうやって活動をしている途中、イエスはよく「寂しいところ」や「人里離れたところ」や「山」で祈ったり、「湖の方へ退いたり」します。活動の合間に「祈る」ことを大事にしていた、一人になることを大切にしていたのでしょう。
聖公会神学院に通っていた時、毎学期の半ばに「リセス(recess)」という1週間の休暇がありました。授業も、宿題も、レポートなどもありません。寮で食事はできるので、寮にとどまってもいいですし、どこかに出かけてもいい、という時間です。東京近隣の教区の人たちは何らかの教区の仕事で出かけることもあったのですが、わたしは教区からの仕事も特にありませんし、1週間教区に戻っても交通費等で大変ですので、寮にとどまるか、幸い実家が近かったので、そちらを訪ねたりしていました。正直なところ、そんなところで休みにするくらいだったら授業を続けてくれた方がいいんじゃないかと思っていました。時間の無駄なんじゃないかとまで思ってもいました。
しかし、実際に教会で働くようになると、そのような「1週間の休暇」というものは望むべくもありません。「新人は休んではいけない」と当時の教会の方に指導されたこともあり、ほとんど休むことなく動き続けていましたが体と心を壊してしまい、しばらくお休みすることになってしまいました。そんな時に「退く」ということの大切さを思い出したのです。
神学校の「リセス」は日本語で「退修」と書かれていました。「退いて、修める」のです。その時は「前に出て、修める」、つまり自分で本を読んだり、レポートを書いたり、実際の現場に出たり、ということが大事なのだと思っていました。「休む」ことや「退く」ことはなんか負けたような気になったり、弱気なように感じられたりしたのです。しかし、福音書をよくよく読み返してみると、イエスは時々一人で祈っており、しかも「弟子たちを先に行かせて」、自分から積極的に一人で山に登ったりしているのです。十字架の前、ゲッセマネの園でも、弟子たちを置いて一人で祈りに行っていました。一人で神と向き合う、自分と向き合う時間はとても大切だったのだと思うのです。これだけのことを成し遂げたイエスさまだから当然で、お前は何もできていないじゃないかと、そんなやつが休んだり退いたりするのか、そんな召命なら止めてしまえ、と言われたこともありますが、わたしは違うと思っています。「退くことによって修められるものがある」のです。自らと向き合うこと、何者でもない時間を持つことは大切なのだと思っています。
わたしたちは今の社会で「何者か」であり続けることを強制されています。みなさん、いくつもの属性をお持ちですよね。例えば「夫」である、「妻」である、「男」である、「女」である。「子ども」である。「大人である」。「会社員である」「自営業である」「主婦である」などなど、わたしたち人間は社会的な生き物である以上、何らかの役割を負っています。しかし時にそれを少し下ろして、神さまや自分と向き合ったりする時を持つことは大切だと思います。「宣教」もそれと同じです。誰かに向かって説く時間だけではなく、退きながらためる時間も必要だということです。わたしたちの持っている時間を「退いて祈る」ために時々使うこと、これもわたしたちの信仰生活の中で、大切にしておきたいことです。この後やって来る大斎節はそのための時ですから、大事に過ごしたいものです。