幕屋にはとどまらない

2023年02月19日

マタイによる福音書 17章1~9節

 今週はいよいよ大斎節前主日。水曜日から大斎節が始まります。福音書は必ず共観福音書からイエスの姿が変わる場面が読まれます。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登ったイエスの姿が白い衣の姿に変わり、モーセやエリヤと語らいます。ペトロが「ここに幕屋を三つ建てましょう」と言うと雲が彼らを覆い、雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適うもの。これに聞け」という声がします。そして目を上げるとイエスしかいなかった。そんなお話です。この「イエスの姿が変わる」話にはいくつもの切り口がありますが、今日は「彼らが目を上げてみると、イエスのほかには誰もいなかった」ということに注目してみたいと思います。

 ここで出てくるモーセもエリヤも、イエスの時代からしてもかなり過去の人物です。エリヤは1000年ほど、モーセはおそらく1500年前くらいの人でしょうか。でもこれ、わたしたちから見るイエスの時代よりも近いんですよね。そのことはちょっと心に留めておいてもいいでしょう。もちろん、彼らの声は、律法と預言者の書によって伝えられていましたが、それでもなかなか「今そこにいるように」伝えるのは難しかったでしょう。わたしたちがイエスさまの時代のことを「今目の前に」いるように感じるのが難しいように。

 そしてこのくだりでもう一つ大事なのは、結局「幕屋は建てられず、イエスも幕屋にはとどまらなかった」ということです。「幕屋」、ようするに「テント」のことですが、イスラエルの民はかつて、「神殿」という固定された場所で祈るのではなく「幕屋」を神殿として利用していました。「移動式」の「神殿」であり、神は「どこにでも移動できる」ということを大切にしていたのです。もちろん「遊牧」だったり「出エジプトの旅」の途中であるのなら問題ないのでしょうが、定住が進むにつれ「幕屋」も一か所に定着し「神殿」となりました。そして月日は流れ「教会」もそのように一か所にとどまるようになりました。

 しかしイエスの活動は一か所にとどまったわけではありません。イエス自身はガリラヤからエルサレムまでという「ユダヤの国」の範囲を出ることはありませんでしたが、弟子たちはユダヤの国を出て広く世界中に出かけていきました。それぞれ活動の拠点を作ることはあっても、そこから「外に出る」ということを大切にしました。イエスがそのようにしたからです。街を歩き、人々と交わり、食事をして雑談をして、町の中で祈り、あるいは街はずれで祈り、語り、人を癒しました。イエスの活動のほとんどが「会堂」や「神殿」の中ではなく町の中や外で行われていたのです。イエスは「幕屋」に留まることなく、そこから外に出て行っていたのです。イエスは自分の体のことを「幕屋」と表現しています。自分が「幕屋」であり、神さまを宿すのだと捉えていたということです。実にわたしたちの体は「神の似姿」として創造されています。だからこそ、わたしたちもまたどこでも「幕屋」として神さまを伝えることが、表すことができます。もちろんイエスほどではないけれども。

イエスが「幕屋にとどまらなかった」というのは大切な気づきであると思います。わたしたちが宣教を考える時「この教会に足を運んでもらう」ということを最初に考えたくなりますが、そうではなく、わたしたちが教会の外に出ていくべきなのだろうと思います。実はまぁ、みなさんはいつも「教会の外」にいるわけですね。その「教会」という「神殿」の外で、自らの体を「幕屋」と捉えて見るとどうでしょう。わたしたちはいつも、自らの行いで神さまを伝えることができます。別に難しいことをすることではありません。神さまに誠実に生きる、ただそれだけです。教会の外において、わたしたちが何をなすのか、それが宣教の大切なひとかけらなのです。

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