平和があるように
ヨハネによる福音書 20章19~31節
イースターが終わり、復活節後の喜びの期間も今日でちょうど1週間。福音書はヨハネからイエスが閉じこもる弟子たちの前に現れた場面と、いわゆるトマスの疑い。イエスの十字架を見て、恐れて鍵をかけて閉じこもる弟子たちのところにイエスが真ん中に現れ「あなた方に平和があるように」と言い、聖霊を授けます。その時にいなかったトマスはイエスが来たことを疑いますが、次の週には再びイエスが弟子たちのところに現れ、トマスは念願のイエスに会うことができ、復活を信じた、という流れです。
イエスの十字架の出来事の後、弟子たちはユダヤ人を恐れて家に閉じこもっています。「自分たちも同じようにとらえられて十字架にかけられるかもしれない」という思いがあったのでしょう。そもそも彼らはイエスが捕らえられたときにも逃げ去ってしまっていますし、こっそりついていったペトロも「あいつの仲間じゃないか」と言われて「あんな人など知らない」と言って外に出てしまっています。十字架の前からもう恐れの中にあるのです。下手をしたら、十字架の出来事のときすでに閉じこもっていたのかもしれませんね。それを見ていたのは「女性たち」であったと書かれていますが、「愛する弟子」以外の使徒たちの名前はどこにも書かれていないのです。そして、イエスは閉じこもる弟子たちの真ん中に「あなたがたに平和があるように」と言って現れます。これは「シャローム」という言葉で、ヘブライ語では一般的な挨拶の言葉、日本語だと「こんにちは」になるでしょうか。ごくごく普通に使われる言葉です。でも、すでに「恐れ」という状況の中にあった弟子たちには「こんにちは」というよりも、本来の「平和」という意味が強く響いたのではないでしょうか。それまで「閉じこもる」という状況の中にあった彼らの心に、イエスの言葉によって「平和」が沸き起こり、彼らが扉をのカギを開けて外へ出ていくきっかけになったのです。
「平和」と言うと、わたしたちは「戦争」に対しての「平和」を思い出すことが多いのではないでしょうか。しかしここでイエスの言う「平和」は、「戦争」に対する「平和」というよりも「恐れ」に対する心の「平和」です。イエスは誰かの家を訪ねる際も「平和」を携えていくように弟子たちに言います。だから祈祷書にある病人訪問の式に「平安がこの家にありますように」というルカによる福音書の言葉が置かれているのです。(共同訳では「この家に平和があるように」となっており、同じ言葉です)「平和」というのは、ただ単に「争いがない状態」を指すのではなく、心が安定していることや、安らいでいることも含んでいます。さらに「平和」が来る、というのは「救い」が来るというのと同じことでもありました。だからこそ、イエスの弟子たちは、何度もこうやって「あなたがたに平和があるように」と声をかけられたことによって、恐れに打ち勝ち、立ち上がって、イエスのしたように歩みだすのです。「あなた方に平和があるように」という呼びかけは、小さいことかもしれないけれども、わたしたちを力づけるものなのです。
わたしたちは毎週の礼拝の中で「主の平和」と呼びかけあいます。平和の挨拶の時、握手するとかしないとか、お辞儀するとかしないとか、いやハグだとか、争ったりして、時々教会に「平和」でない時が訪れたりもします。でも、その時の振舞い方で大切なのは、自分が「主の平和」と声をかける相手に「平和」が飛んでいくように、心を込めてあいさつすることです。ただ単に「主の平和」って言えばいいんでしょ、ってことではなく、短い言葉に相手への祈りを込めるのです。「主の平和」と呼び交わして、わたしたちの心の「平和」をお互いに送りあいながらこれからも歩んでいきましょう