弁護者・一緒にいる者

2024年04月28日

ヨハネによる福音書 14章15~21節

 本日は復活節第5主日。福音書はヨハネからイエスが「弁護者」を遣わす、と約束した場面が読まれます。父のもとから「もう一人の弁護者」が遣わされ、「永遠にわたしたちと一緒にいる」というのです。そしてイエスは「必ず戻ってくる」とわたしたちに約束しています。

 イエスは繰り返し「わたしを愛しているなら、わたしの戒めを守るはずである」と言っています。ここで言う「戒め」とは何かといえば「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということでしょう。また、その模範としてイエスは弟子たちの「足を洗い」ます。当時はサンダルか、布を巻き付けただけか、下手したら裸足で生活していた時代です。今のように靴下をはいて靴を履く、なんてことは貴族でもありませんでした。道路も今のように舗装されているわけではありません。だから「足」はものすごく「汚れて」いるわけです。家の中も、基本的に土間にじゅうたんを敷いた場所なので、ある程度足を清めてから入ります。だからこそ、家に入る前に丁寧に「足を洗う」というのは最上級のもてなしだったのです。それを「互いに」する、というのが大切だとイエスは弟子たちに教えたのです。ここで大切なのは「互いに」ということです。片方が一方的に尽くすのではなく、「互いに」することが大切なのです。ここで気を付けなくてはならないのは、強制的に「互いに」にしようとしてはいけないということです。誰かに向かって一方的に与えて、「ほら、わたしがやったんだからお返しは」と言うのなら、それは「互いに愛し合う」ことにならないでしょう。一方的に与えるだけ/受けるだけの関係は、どこかいびつなものです。必要のないところで強制的に「足を洗って」も無意味になってしまいますから。だから「互いに愛し合う」のは結構難しいことなのだと思います。

 さて、ここに「弁護者」が登場します。「真理の霊」とも言い換えていますが、要するに「聖霊」のことです。「聖霊」がわたしたちのところに遣わされている、ということです。ただ「聖霊」が遣わされていると言われても、なかなか意識するのは難しいものです。しかし「聖霊」は確かに私たちのうちにいるのです。それを感じる一番の方法は、わたしたちの「息」です。人の創造の時、神が土塊で作ったものの鼻から息を吹き入れることで、人は誕生しました。わたしたちは自然に「息」をすることで生きるように作られています。でも、その「息」は意識することもできます。いつもより深く息を吸って吐くこと、それをゆっくり繰り返すことで、わたしたちの中に「聖霊」が宿っていることを実感できます。わたしたちの「息」は「神の息」であり、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言ったように、「聖霊」もまた「神の息」なのです。

 人間は「呼吸」によって、精神状態も左右されることがあります。体を動かしていると息が弾みますし、落ち着いているときはゆったりと呼吸しています。恐怖を感じれば息が浅くなったり、興奮してくれば激しい息遣いになったりします。また、逆に呼吸を激しくすればなんとなく落ち着かない気持ちになったりしますし、息を整えることで落ち着くこともできます。呼吸は無意識でもできますが、意識的に行うことで自分の体をコントロールできます。わたしはだからこそ聖霊=息が「弁護者」なのだと思います。わたしたちの心を整え、支えてくれる「息」は、決してわたしたちから離れることがありません。わたしたちが「こうしたい」と思ったとき、わたしたちの体を「したい」方向へ向かわせてくれるのです。試しに呼吸を止めて何かをしようとすると倒れてしまいますよね。「聖霊」=「息」は永遠にわたしたちと共にいて、歩んでいるのです。それを忘れずにいましょう。


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