律法の背後にある神の創造の意図
マタイによる福音書 5章21~24,27~30,33~37節
今日の福音書はマタイによる福音書から「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「誓ってはならない」の3つのまとまりが読まれました。それぞれの箇所でイエスは、「○○してはならない」という律法についての解釈を語ります。
「律法」という言葉を聞くと、なんか難しくて堅苦しくて、というような印象を持つことも多いでしょう。イエスはよく律法学者やファリサイ派の人々と論争をしていますし、律法を否定するような物言いをしていることも多いのですが、ここの3つの部分を読んでいくと、イエスはただ律法を間違ったものとして廃棄するような考え方をしているのではなくて、律法を一歩進めて完成に持っていくような考え方をしていることがわかります。
最初の「腹を立ててはならない」で取り上げられているのは「殺すな」という十戒の一つですね。イエスはその最初に「怒り」や「争い」があるから人を殺す結果につながる、と喝破しているわけですが、確かにそうですね。楽しみながら人を殺す快楽殺人鬼のような人は明らかに普通ではないですよね。普通の人が人を殺すようになるためには、怒りや争いが根っこにあるし、そのほかにも孤独だったり、絶望だったり、未熟さだったり、様々な行き違いがあったりと、いくつもの段階を経て「人を殺す」という状況に到達するものです。だからこそ、その根っこにありがちな「怒り」や「争い」をまず解決することが十戒の「殺すな」を守る、誰でもできる大切な行動であるわけです。そしてもちろんこれは「争ってはいけない」と単純に言えることではなく、どうしたって意見の相違があり、意見を戦わせることはあってもよいけれども、それを解決に導くようにすることが大切だというわけです。そしてそのあとに生まれるのはお互いへの信頼です。
「姦淫してはならない」でも、イエスは律法の条文を一歩前に進めます。具体的に行為に及ぶかどうかではなく、そういった気持ちを持つことを戒めるのです。確かに、気持ちを持たなければ行為に向かって進むこともありません。それが簡単なことかはさておいて、戒めることも大切ですし、やはりお互いに「信頼して」過ごすことができるようにしていきたいものです。
「誓ってはならない」のまとまりはわかりにくいかもしれません。みなさんは「誓った」ことがありますか。入社の時に宣誓したりするところもありますし、結婚式では誓いをしますね。ですが日常的に誓いを立てる、というような習慣がある人は少ないでしょう。基本的には洋の東西を問わず、神(神的存在)を証人として誓うのがほとんどですが、こうなってくると本当になかなかしないものですよね。まぁそうですね。運動会の選手宣誓くらいだったらみんなやったことがあるでしょうか。それだけみなさんがいざ「誓う」となったときは、しっかり真剣に考えるものだと思いますし、それでいいのです。ただ、イエスさまの時代には軽々しく誓うことがあった、と考えておいてください。
これらの3つに共通するのは、取り上げられている戒めは「神さま」を前提としているということです。「殺すな」という時、神さまは「人間はお互いに害を加えずに生きるように創造した」のだと言っているし、「姦淫するな」という時、神さまは「人間はお互いに関係を破壊せずに生きるように創造した」のだと言っているのです。そしてその関係が実現しているのなら「誓い」は必要ありません。そこに疑いや保証の必要がないからです。何よりも神を証人に立てて誓うということは、神さまを利用することにつながります。人間同士の間に信頼が出来上がるとき、そこに神の国が生まれてきます。わたしたちの間にできる「信頼」はわたしたちの間に生まれた小さな「神の国」です。「戒め」の奥にある神さまの思いを感じながら、信頼に満ちた日々を送れるよう勤めていきましょう。