御手に委ねて
ルカによる福音書 23章1~49節
本日は復活前主日。今週は「聖週」というイエスの受難を大切にする1週間で、イースター前の教会の信仰のコアとも言うべき1週間です。イエスの受難についての長い長い聖書箇所が、今年はルカから朗読されました。裁判の後のピラトの尋問から始まり、再びの裁判を経て死刑判決となり、十字架の道をたどってゴルゴタの丘で十字架につけられるイエス。「わたしを思い出してください」と言った犯罪人に対して「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言い残し、最後は「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って息を引き取ります。
毎年、わたしたちは教会の暦に従ってこの出来事を読みます。結末はわかっているのですが、何度読んでもこの箇所は胸にきます。人が死ぬ場面というのは何度見ても慣れるものじゃないと思います。以前「パッション」の映画を見ましたが、それも胸に残っています。使徒信経であれば「十字架につけられ」と一言で終わりますが、映像を思い浮かべるととたんに「大変な出来事だ」という思いが強くなるのです。
最近のマンガには時々「原作」がついているものがあります。他にも小説をマンガにするというものもあります。その原作者さんと漫画家さんの打ち合わせの話を目にする機会があったのですが、なかなか大変なんだなと思いました。例えば小説だったら「おびただしい敵の軍勢が地の果てを埋め尽くしていた」と一言書けば済みますが、これを絵で書こうとすると大変なことです。さらにこれを映像化しようとするとまた一段階大変になります。文章で書けば簡単に見えることも、実際に自分でやろうとすると大変なことはよくあります。「手をばねのようにして跳ねて起き上がった」と書くのは簡単ですが、それをやろうとしてもどうもうまくできません。運動神経も含めて、それぞれにまたできること、できないことがありますからね。「十字架につけられた」と書いてしまえば一言で済むのですが、それが映像になれば、どこに釘を打ったのか、流れる血はどのくらいかとか、どのくらいまで高く上げたのかとか、いろいろなことが考えられます。でも、こうやってきちんと思い浮かべるのは大切なことであると思うのです。「ふーん、そうなんだ」とあっさり過ぎてしまってはいけないと思うのです。だからこそ、長いこの聖書の箇所が読まれるのです。そして、なかなか難しいこととは思いますが、しっかりと「映像」として思い浮かべつつ黙想することが求められるのです。今日という今日は、目を逸らさないで十字架のイエスを見つめましょう。そうやって思い浮かべていくことで、イエスが息を引き取った時の言葉「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」が際立つのです。
ほかの福音書では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、「神は私を見捨てた」という悲痛な叫びでもあります。しかしここではそこから少し先に進んだ言葉になっています。十字架に打ち付けられた痛み、鞭で打たれた痛みも含め、体中が痛みの中にあります。しばらく食事もとらずにいれば空腹もあるし、喉の渇きもあるでしょう。意識ももうろうとする中で、自分をあざける声が聞こえる。普通に考えたら耐えられない状況の中で「神は俺を見捨てやがった」と叫ぶほうが自然に聞こえます。それでもイエスが「わたしの霊を御手に委ねます」と祈るのは、イエスの中にある神への絶大な信頼です。だからこそその姿を見続けた百人隊長が「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を崇めるようになったのです。どんな状況にあっても、神さまに「委ねる」ことができますか。イエスの受難はこういった問いかけでもあります。「聖週」というこの1週間、主の十字架を見つめながら、すべてを神さまに委ねて祈ることを大切にしていきましょう。