恵みの上にさらに恵みを与える
ヨハネによる福音書 1章1~18節
クリスマスから1週間が経った今日、教会はクリスマスのお祝いの中にあります。カトリック教会では「聖家族」の主日と言われ、ヨセフによって家族ともどもエジプトに脱出したことをおぼえてお祈りする日です。さて、今日の福音書はクリスマスとほぼ同じで、少し長くなってきます。この「少し長くなった」部分に、今日のポイントがあるのかなと思います。この部分はイエスについて「わたしたちはこの方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた」と表現しています。そして、そのイエスが「神を示した」というのです。
ここでは「恵みの上のさらなる恵み」について「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと心理はイエス・キリストを通して与えられた」と解説しており、「律法」も「恵み」だととらえています。イエスは福音書の中のイメージからすると「律法」に否定的であったように見られることがあります。しかし、よくよく聖書を読んでみると、イエスは決して「律法」を「否定」したのではなくて、「律法を運用する人たち」や「律法の運用の仕方」を「否定」したのだということが分かります。安息日論争の時も、井戸に落ちた子どもは助けるではないかと言っているし、「姦淫してはならない」と言ったときも、行為そのものではなく、その前に「目で」つまずいているのではないかと否定しています。文章に書きあらわされたものって、抜け道を探すようなことをしてしまうことがありますが、それが常態化していることをとがめているようにも思います。
そもそも、律法は「神が押し付けた堅苦しい決まり」などではなく、「イスラエルの民が、自分たちを確立するために神から与えられた決まり」でした。砂漠を旅するうえでの決まりであり、民族が団結するための決まりでもありました。だからある意味非常に簡素なものであったはずです。十戒こそその最たるものです。しかし、運用していけばどうしても解釈の違いなどが出てきてしまいます。だからイエスは「律法が恵みである」ことに立ち返るように、人々に教えていたのです。例えば、そもそも安息日が設けられたのは、体を休ませるためでもあり、その時に神さまにお祈りするためです。しかし「休むとは何か」と考えだしてしまえば、その解釈は無限に生まれます。しかも時に、その解釈に沿った厳密さも求められたりします。だから定期的に「原点」に立ち返ることが必要になってくるわけです。そうでないと、枝葉末節のほうが大切な状態になってしまう。「安息日」なのに「安息」が得られなくては意味がないですよね。
イエスは「律法」が「恵み」であることを取り戻すため、そして「その上にさらに恵みを与える」ためにやってきました。では「律法」という「恵み」の上に与えられる「さらなる恵み」とは何でしょうか。それはここに「真理」ということなのだと思います。では「真理」とは、と問われると、答えに窮してしまいそうですがそうではありません。それは、わたしたちがイエス・キリストの生涯を通して学んでいくことだからです。キリスト教や聖書はクイズ形式の学びではありません。そうではなくて、わたしたちが一生をかけて、イエスという男の一生から学んでいくものです。そしておそらく「真理」とは万人に同じものではなくて、少しずつ違っていていいのだと思います。ある意味で「さらなる恵み」は「イエス・キリストそのもの」だといってもいいのかもしれません。2000年前にこの地上に生きた男の生き方が、聖書を通して世界中に影響を与え続けています。わたしたちはイエスの誕生の時から毎年、学びなおしています。さぁ、イエスさまに従って、新しい年も歩みだすとしましょう。