悔い、改める、ではなく

2024年12月08日

ルカによる福音書 3章1~6節

降臨節に入って、今日は第2主日。福音書はルカから洗礼者ヨハネの登場です。ヨハネはイザヤの預言を宣べながら、ヨルダン川のほとりで悔い改めの洗礼を施します。

「悔い改め」という言葉、「悔い」「改める」、なんというか「反省して」「行動を直す」というような意味に感じられます。一応全く間違っているというわけでもないのですが、「反省して」「行動を直す」という意味とは少し違います。もっと根本的なことを言っているんです。だからこそ洗礼者ヨハネは、今日の箇所の後「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と群衆に問いかけます。

 そもそも人は「神によって創造された」と考えるのがキリスト教の根本です。あ、これが進化論とかそういう話じゃなくて「教会としてそう考えているのが基本」ということです。それがキリスト教の考え方の出発点になります。さて、じゃあ「神によって創造された人間」は「どのように生きる」ものとして創られたのかというと、「神に向かって生きるように」創られたということになります。神さまは人を「神の似姿」として創って、神に従う者とされたのです。しかもその一方で「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ」と、人として「生きる」ことも大切にするように言っています。ところが聖書にもたくさん例があるように、そういう生き方ってなかなかできないんですよね。だいたい人はいつも神に向かっていることってできなくて、神さまに向かう道からそれてしまうんです。そして、そのそれてしまった道を「正しい道」つまり「神さまに向かう道」に戻すこと、これが「悔い改め」です。「悔い」「改める」のではなく、まとめて「悔い改め」という言葉なんです。ちなみにそのそれてしまうことを「罪」と言います。何か決まりを破ることではなくて、やっぱりそれより前の問題です。

 「悔い」「改める」と考えると、少し暗い考え方になってしまうかもしれません。「神に向かって生きる」ことができないのが「悪い」というメッセージが出てくるからです。ここで大切なのは「人は神に向かって生きるように創造された」と言いながら、「ほぼ誰一人として実践できないであろう」ということなんです。多分最初からずっとでき続けたのはイエスさまだけです。だから、「できない」自分を必要以上に責める必要はないのです。できなかったと思ったら、その都度「悔い改め」て、神さまへ向かう道に戻ろうとするだけです。そうやって何回も何回も戻ろうとすることが「信仰」なのです。

 預言者イザヤの言葉には「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり」とあります。今、あちこちで道路工事が行われていますが、道を平らにならして通りやすくするのは大変です。とても時間がかかるし、手間もかかるし、人手も必要です。神さまに向かう道をまっすぐにするのには、果てしない心の工事が必要だということです。そして、その工事は、神さまに支えてもらいながら、わたしたちが一人一人行うことでもあります。わたしたちはみんな「信仰」という神さまに向かって生きる道を建設している道路工事の職人です。いくら神さまが支えてくれていたとしても、わたしたち、ずっと一人でやっていたら疲れてしまいます。だからこそ教会があって、一緒に道路工事をしている仲間たちと、疲れを分かち合い、困難について話し合い、一緒に祈って少し元気を取り戻して、信仰という道路工事に戻るのです。そしてこの降臨節から続く降誕節は、一年に一度、神さまがわたしたちにイエスさまというプレゼントをくださる日です。喜びをもって迎えましょう。


無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう