悔い改めよ、天の国は近づいた
マタイによる福音書 4章12~23節
今日の福音書はマタイによる福音書から、イエスの宣教の開始です。「悔い改めよ、天の国は近づいた」とイエスが言って宣教を開始し、四人の漁師を弟子にする場面です。
イエスの宣教の一番のメッセージはこの「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉です。「悔い改め」というのは、何度もお伝えしている通り「悔い」て「改める」ことではありません。「神さまのほうを向いて生き直そう」ということです。創造の初めに、神は人を神の方を向いて生きる者とされましたが、さまざまな「罪」があり、そうなりませんでした。わたしたちも、神さまのほうを向いて生きようと決意しても、日々見直して改めないとなかなか神さまのほうを向いて生きることができません。
さて、イエスがそう言い始めてした最初のことは、四人の漁師を弟子にすることでした。イエスは彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言います。ここに「悔い改め」というイエスの言い方を読み解く上で大切なヒントがあります。この四人の漁師は自分の普段の生活をしています。人間をとる漁師になるということは、魚をとる漁師ではなく、つまり自分で自分の食い扶持を稼ぐことではなく、神さまの言葉を広める仕事をすることです。大きく自分の生き方を転換することです。彼らの生き方はここで大きく改められました。とは言ってもわたしたち全員が「神さまの言葉を広める仕事」だけをするわけにはいきませんし、今の生き方を一気に変えられるわけもありません。これでは「悔い改め」のハードルが上がってしまいますね。
ではイエスの「わたしについて来なさい」という言葉はどのような意味でしょうか。一つはこの四人の漁師たちのように、今の仕事を捨てて、神さまの言葉を広める仕事をすることを指します。もう一つはパウロがしたように、別の仕事をしながら神さまの言葉を広める道です。ちなみにパウロは「天幕づくり」の仕事をしていたようです。そして最後の一つは、普段の生き方を、イエスの生き方に変えていくことです。自分の普段の生活の中で、「こんなときイエスさまならどうするだろう」「イエスさまならどう言うだろう」と考えて生活することです。「イエスについていく」ということは、「イエスならどうするだろう」と考えて、自分の生活をイエスに倣って生きるように変えていくことです。こうするだけで「悔い改める」ことができます。そのためのヒントはこの聖書の中にたくさんあります。様々なたとえ話、イエスや弟子たちの言葉がそこにはあります。だからわたしたちは聖書を読んで、聖書に聞くのです。
こうして、多くの人が「悔い改める」生活を始めることで、「天の国」が近づきます。「天の国」というのは、すべての人が神さまのほうを向いて生き、イエスに倣う生き方をする状態のことです。とはいっても、なかなかそうはなりませんよね。だって教会の中でだって怪しいんですもの。だからわたしたちは、日々祈りつつ、聖書に聞きつつ、イエスに倣うように何回だって生き直すのです。「悔い改め」というのは、一度で終わりではありません。むしろ、何回でもやり直して改められる、改め直せるものなのです。
四人の漁師たちは、「悔い改め」て「天の国」を広めるために力を尽くしました。とはいっても、福音書を見る限りでは、彼らは何度もイエスに叱られながら、生き方を変え続けていきました。逃げ出しすらもしましたが、後で戻ってきました。最終的に彼らが完全に生き方を変えたのはイエスの死後でしたが、何度でもやり直す姿勢は、わたしたちも大切にしたいと思います。イエスの生き方に何度でも倣いなおして、これからも進んでいきましょう。