愛の見守りによる試練

2024年02月18日

マルコによる福音書 1章9~13節

 本日は大斎節第1主日。洗礼の後、イエスは霊によって荒れ野へ追いやられます。「これはわたしの愛する子」と言われながら、「荒れ野」へ追いやられるのです。

 「荒れ野」は、ユダヤの人々にとって怖い場所でもありますが、歴史的に大切な場所でもあります。人がおらず、悪魔がいたり、追剥や盗賊がいたりします。人の生きる場所ではないという認識でしょう。一方で出エジプトから荒れ野をさまよい、そこで十戒を授かって、現在のユダヤの国に入ったのです。ある意味で民族としての基礎が築かれたのもまた荒れ野であったわけです。そういった場所にイエスは「霊」によって行かされることになったのです。

 「荒れ野」は大変なところです。食べ物は少ないので自分で集める。飲み物は水場を確保するのが大変です。洗礼者ヨハネは「イナゴと野蜜」を食べていた、と。荒れ野に逃げ聖書に記されています。預言者エリヤも食べ物がなくて苦労しました。イエスも同じようにして、四十日四十夜を過ごされ、さらに悪魔から誘惑を受けました。なぜ「霊」はイエスに対してそうしたのでしょうか。「これはわたしの愛する子」なのに、大切にして守るのではなく、洗礼の後いきなり「荒れ野に」放り出したのでしょう。

 「かわいい子には旅をさせよ」とか「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言い方で、「苦労すること」「最初に大変な思いをすること」を肯定することがあります。一方で、「若い時の苦労」、特に「虐待」や「いじめ」などで、精神的に重荷を負ってしまうことがあります。だから私は正直なところ、「わざわざ苦労はしなくてもよい」と思っています。一方で、必要な訓練(苦労)をしなくては、ごく一部の天才を除いて何事もできるようにはなりません。そうなるとどうしたらよいのでしょうか。この「霊」がイエスを荒れ野に追いやったことをどう考えたらよいのでしょうか。

 一つ大切なのは、物理的にイエスは荒れ野に一人でいたわけですが、天使たちが仕えていたということです。神が手元に置くのではなく、イエスは地上に送り出されているのです。だからこそ、最初の時、天使たちが守っていたわけです。そもそも「手元に置く」ことだけが守ることではありません。子どもの成長もそうですが、小さいうちは手元に置きつつ、保育園や幼稚園、学校などの場所に送り出しながら成長するように見守りつつ、だんだんと手を離していくものです。自分で裁量できることを増やしながら、例えばお小遣いなどをあげることなど、練習をしていくわけです。その中でちょっと苦しいこともあるかもしれませんが、その苦労も手出しせずに見守って大人に向かっていくわけです。勉強もそうですね。最初は簡単なことから、隣についてやっていても、自分一人でできるように見守っていくことで、徐々に高度なこともできるようになっていくわけです。当然苦労はするわけですが、「愛の見守り」を通した苦労であることが大切です。こう考えていくと、「神さま」は「霊」によってイエスを見守りつつ、「悪魔の誘惑」を通してイエスに必要とされる「試練」を与えたのだろうと考えられます。

 わたしたちの教会歴は「大斎節」を迎えています。「大斎節」は、わたしたちにとっての「愛の見守り」を受けながら行う「試練」です。それは、神さまがわたしたちに与えてくださったものです。よく「大斎節なので○○を我慢します」ということがありますが、それも「自らを痛めつける」ようなことではなくて、「信仰に必要であるかどうか」「神の愛を感じながら行えるかどうか」を考えながら、大斎節を、少しの愛の見守りによる試練と共に過ごしていきましょう。


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