手を取り合って
ルカによる福音書 23章35~43節
今日の福音書は「十字架にかけられるイエスとその両脇にかけられた犯罪人とのやり取り」です。議員たちがイエスを罵ると、それと一緒に左右にかけられた犯罪人の一人がイエスを罵り、それをもう一人がたしなめ、イエスにとりなしを願います。イエスは彼に対して「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と告げるのです。
「他人を救ったのに自分は救わない」と議員たちや犯罪人の一人はイエスに言うわけですが、わたしにとっては自分を救うより、他人を救う方が楽、というかわかりやすい気がするのです。
みなさんは自分自身が「何に困っているのか」ちゃんと知っていますか。自分のことを言えば、わたしは自分で何に困っているのかよくわかっていないんじゃないかなという経験がかなりあります。人から言われて、そんな馬鹿なと思いつつやってみると、「あれ、自分はこれで困っていたのかもしれない」と思うことがあるのです。みなさんはどうですか。考えてみれば自分のことを100%自分で解決できるのなら、わたしたちはこんなに悩まないんじゃなかろうかと思うのです。「岡目八目」なんて言葉もありますが、自分でその場所にいるとわからなくても、傍から、ちょっと離れたところから見たほうがわかることもあったりするものです。念のため言っておきますが、100%他人がわかるわけではなくて、わたしたちが思っているよりも、自分よりも他人のほうが自分のことを分かっているのではないか、ということです。そして、自分で自分のことが100%わかるわけではない、ということです。
自分で自分を救うことができる、自分だけで完結しているのがちゃんとした人間だと考えるかもしれません。でも、聖書にある人間像って、そんな完璧な人間ばかりではないですよね、というかそんな完璧な人間は聖書に登場しません。むしろ自分ではどうしようもできなくて、誰かに、神さまに助けてもらう人ばかりが登場します。ということは、わたしたちもそうだということです。人間というのは「誰かに助けてもらう」のを前提としている生き物ではないかと思うのです。だから「できなくてもいい」ので、全く努力しないのもあれですけど、「助けてもらってもいいのだ」ということは深く心に留めていたいと思うのです。反対に、よく「自分ができてから助けろよ」という言い方をする人もいますが、そうではありません。他の目で見たほうが見えることがたくさんあるからです。わたしたちは自分が完璧じゃなくても、人を助けていいのです。いやむしろ、何らかの形で人を助けて行くのが良いのです。
いやいや、イエスは神の子だから完璧なんだ。だから自分でできるじゃないかというかもしれません。でも、地上でのイエスの生涯を見ていると、そうかもしれないけれども、人から手助けを受けるということに関して、イエスは普通の人と同じであったと聖書には記されています。そして「人として生きる」範囲をはみ出すことはありませんでした。
わたしたちは人間です。そして自分で自分のこともよくわからない人間です。だから、人から助けてもらうのは当たり前だし、だからこそ逆に人を助けることもできるのだと思います。何より、自分のことが自分で全部できるならお医者さんはいりません。そしてもちろん、専門家じゃなくても手助けすることは大切なことです。人間は独立して生きていくのは不可能ですからね。自分で自分のことがよくわからなくても、自分で自分のことができなくても、人に助けてもらって、人を手助けしながら、お互いに手を取り合って、生きていきたいと願っています。