曲がりくねった道をまっすぐに
マタイによる福音書 3章1~12節
降臨節も2週目に入り、ろうそくが2本に増えました。クリスマスが近づいていますね。今日の福音書は洗礼者ヨハネについて。イザヤの預言や人々の様子が語られます。
洗礼者ヨハネはエリヤの再来として人々から注目されていました。多くの人がわざわざ荒れ野のヨハネのところに集まったのです。敵対するはずのファリサイ派やサドカイ派まで洗礼を受けに来たわけですね。
「北海道の道はまっすぐで、都市は碁盤の目のようですよ」と聞いていて、確かにそうだなと思っていましたが、釧路に来てみたらまた違う印象を持ちました。道が曲がりくねっていて、よくどこにいるかわからなくなるからです。釧路だけではなく、古い町、例えば函館などもそうですね。道が曲がっている。しかし一方で、地形を生かしながら目的地にしっかりと向かっているのです。今の日本の技術力でしたら、コストの問題はともかく、高速道路などの建設の際には道をまっすぐ通すことができます。しかし大概の場合はそうするのではなく、地形に合わせて曲がった道を作ることが多いものです。人間から神さまに続く道も、何の障害もなくまっすぐに神さまの方向に向かうことができればよいのでしょうが、大抵の場合はそうは問屋が卸しません。
預言者イザヤの言う荒れ野の呼びかけは「主の道筋をまっすぐにすること」でした。「まっすぐにする」というと、わたしたちには高速道路のような、本当にまっすぐ、目的地まで突き抜けていく道を表しているようなイメージが浮かびます。しかし、人間の生き方は、どんなにまっすぐな人でも、何らかの形で曲がりくねっていたりするものです。教会の信仰も、ただひたすら信じて忠実に教会に生き続けることができればいいのですが、たいていの場合はそうではありません。仕事や家庭など、様々な状況に折り合いをつけながら、行ったり行けなかったりしながら信仰の道も続いていくものです。時に神さまに否定的な気持ちになってしまうことすらもあります。それでもなお、わたしたちは神さまのほうに向きなおり(悔い改め)てその道を進み続けてきて、今、ここに座っているのです。
もとより普通、道は何らかの目的地につながっています。ただ、その道が多くの場合は地形や道ができた当時の事情に合わせて曲がっているだけで、確かに目的地に向かって「まっすぐに」つながっているのです。わたしたちの信仰の道も、振り返ってみればたくさん曲がりくねっているところはあるのですが、目的地(神さまの所)に向かって「まっすぐに」つながっているのです。
降臨節には必ず洗礼者ヨハネに関するイザヤ書の呼びかけの部分が読まれます。これは、わたしたちへの神さまからの呼びかけを今一度思い起こすためです。わたしたちの道は、わたしたちによって曲がりくねっていますが、最終的には神さまという目的地につながっているのです。ですから、わたしたちはヨハネの呼びかけに答えて、わたしたちの曲がりくねった道をまっすぐに、神さまに向かって進んでいきましょう。どれだけ逸れても大丈夫。神さまの呼びかけに応えて、元に戻ればよいのです。今がその点検の時です。年末、年度末には各地で道路工事がたくさん行われているものですが、わたしたちクリスチャンは、教会の一年の初めに神さまへの道の工事をして、神さまへ向かう道を歩むのです。そしてその道をとおって、向こうからイエスさまがやってきます。それがクリスマスです。クリスマスまであと少し。イエスさまをお迎えするため、わたしたちの曲がりくねった道をまっすぐに進みながら、しっかりと工事をして、イエスさまをお迎えしましょう。