最低限のライン

2025年02月23日

ルカによる福音書 6章27~38節

顕現後の週も7回目に入り、いよいよ大斎節が近づいています。本日の福音書はイエスの「平地の説教」から「敵を愛せ」とイエスが説く場面。イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」といった言葉は有名ですが、こちらもまた衝撃的なものです。そもそも「敵」と思っている相手を「愛する」ことができるのかどうか、首をかしげてしまいそうです。

ところで「敵」とはいったい誰のことでしょう。もし仮に戦争でもしているのでしたらわかりやすいかと思いますが、そうではありません。辞書で「敵」と引きますと、「自分と争うもの」「競争、試合の相手」「害を与えるもの」「比較の対象になる相手」など、幾つもの意味が出てきます。「自分と争う」と考えると、自分の周りにいる自分と関わる人は誰でも「敵」になる可能性がありますよね。例えば会社などで方針を決める時、意見が違えば「敵」となってしまいます。またスポーツなどの試合の相手は「敵」ですし、「比較」されたことがない人などいないでしょう。と言うことは誰もが誰かの「敵」になりうるというということであろうかと思います。残念ですが、誰とも争ったことがない人などいませんし、そうできる人もいないでしょう。イエスさまだってファリサイ派や律法学者たちと争っています。つまり「できる人がいない」と言っていいと思います。

「敵」は排除すればいい、と単純に考える人は多くいると思います。確かに、所謂「社会の敵」というような相手の場合はそう言えるのかもしれません。でも、それ以外の「自分と争う者」を考えるのなら、排除し続けるわけにはいきません。だって、誰もが誰かの「敵」になりうる状態なわけですから、それを排除し続けていると、みんな孤立してしまいます。そんなわけにはいきませんよね。そもそも「関係が悪い」のが「敵」なわけではなく、関係が良かったとしても「意見が合わない」ってことありますよね。そうすると「敵」になってしまうわけで、それを「排除」するのはかなり難しいでしょう。また、かつては「敵」であった人が、味方になることは割とよくあることです。別の共通の外敵のために「敵」と手を組むなんてこともあります。歴史的に見れば国と国との外交の場だと結構あるケースでしょう。「敵」はずっと敵ではないですし、味方がずっと味方だとは限りません。だからこそ「敵を愛しなさい」ということが大切なのではないでしょうか。

では「敵を愛しなさい」と言われて何をしたらよいのでしょうか。何度も言っているので、耳にタコができているかもしれませんが、「愛する」というのは「大切にする」ということです。決して男女の間のことだけではありません。ベタベタするということではなく、お互いに敬意を持って接し合うことです。日本の故事に「敵に塩を送る」という話がありますが、まさにそういうことです。「敵」だから「口を利かない」とか「無視する」ということではなく、きちんと話をするし、あたりがキツくなったりすることなく、普通に応対するということです。別に親しい人へ愛想よくしてはいけないというわけではなく、誰に対してもいわば「最低限のライン」を守るということです。それ以上にしたい相手にはしてもいいけれども、誰に対しても最低限の対応をするということです。そしてその(自分の中での)「最低限のライン」を「愛する」「大切にする」レベルに置く、ということです。簡単に言っていますが、結構これって大変ですよ。

「敵」というのは一般的に「倒す」ものです。けれども教会はイエスによって「敵を愛する」ことを基本としています。難しいことだと思います。それでも神さまの助けを借りながら「敵をも愛そう」として実践していくことが大事になってくるのです。


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