本質が大事
マルコによる福音書 12章38~44
本日の福音書はマルコから、律法学者への非難とやもめの献金の話です。イエスは律法学者の普段の態度を批判したうえで、対比してやもめの献金を褒めます。少し解説するなら、見た目や態度などの外に出ている物ではなく実際どうだったか、今日の聖書箇所でしたら献金などをするときの割合などの本質を見なさい、ということですね。
みなさんは初めて教会の礼拝に参加したときどう思いましたか。もう遠い昔過ぎて覚えてないかもしれませんが、どう動いていいかわからず、戸惑ったこともあったかなと思うんです。そうですね、ここでない教会に初めて出席したときとか、教区礼拝などの大人数が集まる礼拝の時に戸惑うことも同じような感じでしょうか。立っているのか座っているのか、お辞儀してるとか、十字を切ってるとか、そういうのを見て、自分はそこでそうするのを知らなくて戸惑ったり、びっくりしたりすることってないでしょうか。そして「できなきゃいけないことなんじゃないか」って心配する人も多くて、あとで「あれは何ですか」と聞かれることがたまにあります。それから「所作の指導をしてほしい」と言われたこともあります。考えてみれば、司祭たちの聖餐式の所作も結構人によって違いますよね。聖別の時、わたしは結構パンとか杯を高く上げるほうなのですが、まったく上げない人もいますし、十字の切り方とかもまちまちだったりします。礼拝中の信徒の所作もそうなんですが、一応全部に意味があってそうしていることではあるんです。ただ、忘れちゃいけないのは、別にどれも「やってもやらなくても全く問題にならない」ということと、むしろ「どんな姿勢で礼拝に臨んでいるのか」ということが大事だということなんです。それから、いくつかのやり方があって、正解はないということも大事ですね。やらなかったら天罰が下るとか、そういう話じゃないんですよね。「所作」にこだわりすぎて、神さまに向かう気持ちをどこかに置いてきてしまうのなら意味がないということなんです。そして「周りからどう見えるか」というのも意外と大事なのかもしれません。初めて教会に来る人がふらっと入ってきて、みんなが一糸乱れぬ動きで様々な所作をしていたら「ちょっと怖い」と思ってしまいそうです。立ったり座ったりもそうですね。体の都合でできない人もいるわけで、しなかったらいけないわけじゃない。所作にこだわりすぎても、別の方向に行ってしまいます。つまり、神さまよりも所作が気になる状況は、信仰にとってもよくないということなんです。所作のほうが神さまよりも偉くなってしまっているからです。そしてこれは、教会の決まりだとか、奉仕の活動だとかも同じことです。自分の中での一番の位置を、神さまのために空けておくことが大切なのです。まぁ、かと言って、礼拝中ずっと鼻くそほじりながら座ってスマホ見てるなら、それはそれで信仰としてはどうなんだろうとなってしまいますし、周りにもいい影響はありません。「信仰」は個人のものであると同時に「集団」のものでもありますから、「周囲にどう見えるか」というのも忘れてはならないのでしょう。
それから、やもめの献金の話も「これが普通」とするならば、ちょっと危ないものです。イエスは確かにこのやもめが「乏しい中から全部入れた」ことを褒めますが、決して「あなたもそのようにしなさい」と言っているわけではありません。それは個人の信仰的な態度の問題であり、誰もができることではないからです。これをわたしがみなさんに勧めたら、間違いなくカルトですからね。
わたしたちの信仰は個々の「どうしたか」ということよりも、本質に目を留めることが大切です。そのことを忘れずに、信仰の道を時々休みながら歩むことを大切にしましょう。