来なさい、そうすればわかる

2023年01月15日

ヨハネによる福音書 1章29~41節

 今日の福音書はヨハネによる福音書から、洗礼者ヨハネの二人の弟子(一人はアンデレ)がイエスに従うようになる場面です。そしてアンデレは自分の兄弟であるシモン・ペトロを誘い、彼もイエスの弟子となります。

 洗礼者ヨハネはイエスのことを「見よ、神の小羊だ」と表現します。洗礼者ヨハネは「自分の後から来られる方」について証言していますから、イエスを見て「そうだ」と思ったのでしょう。ヨハネは繰り返しそのことを言っていたからでしょうから、弟子たちもすぐにそれとわかってイエスの方へ行くのです。

そこで弟子たちはイエスに「どこに泊まっておられるのですか」と問いかけます。これは、わたしたちの今の状況から考えると少し奇妙な質問です。だって、その人がどこに泊まっているのかというのは、その後のことを考えなければ特に必要のない情報ですよね。しかもそのあとの行動が「一緒に泊まる」です。訳が分かりませんよね。ここで思い出す必要があるのは、洗礼者ヨハネがどこで寝泊まりしていたかです。そう、荒れ野ですね。「荒れ野で寝泊まりしている」というのは、彼の活動の一部で、彼が何をしようとしているかにとってとても大事だったのです。そして、そこに行ってその話を聞くというのは自然な流れでした。だから「どこに泊まっているのか」というのは大切な問だったのです。イエスはそれに対して「来なさい、そうすればわかる」と答えます。そしてヨハネの弟子であった二人はイエスに従い、イエスと語り合い、イエスの弟子となったのです。

「来なさい、そうすればわかる」というのはある意味究極の声掛けです。「百聞は一見に如かず」ということわざもあるとおり、実物を「見る」ことで何回もの説明を一回で済ませることもできますし、何回説明されてもわからなかったのが、「見た」ことによって一発で理解できることが多いからです。確かに「見る」というのはとても大事なことです。しかし一方で「見る」ことによって騙されてしまうこともあるので、難しいものですね。

 様々な人と出会い、時々、教会に、あるいはキリスト教に興味を持ってくれる人に出会います。いろいろと質問をされるので、答えます。でも、なかなか説明が難しかったりするわけですね。それに、言葉をいくら重ねても理解されなかったりします。だから「来なさい、そうすればわかる」と言いたい時もあるのですが、そう言ってもなかなか足を運んでもらえないのが現状です。もちろんその人の問題でもあるのですが、一方で果たして「教会が足を運んでもらいやすい場所」であるのだろうかと思うことがあります。

 もちろんこれにはいくつかのわたしたちではどうしようもない理由があります。一つは新興宗教や商売などで「見せる」ことによって「騙す」ような勧誘の仕方をするところがたくさんあるからです。そして、宗教に「怖い」「怪しい」というイメージがあったりするからです。そういったイメージを払しょくするのはなかなかに大変です。

しかし一方で、わたしたちの教会にもまだまだ「いきなり誰かが来た」時にわかりにくかったり、入りにくかったりする所もたくさんあります。それは多分、わたしたちの意識の持ち方で改善できるものだと思います。わたしたちにとっての常識は、初めて来る人たちとっての常識ではありませんし、わからないことだらけのところに足を運ぶのって難しいものですよね。「来なさい、そうすればわかる」と、わたしたちも声に出せるよう、環境を整えることも始めてみましょう。


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