正しさを越えて
マタイによる福音書 1章18~25節
降臨節も4週目に入り、ろうそくが4本に灯りました。いよいよクリスマスですね。今日の福音書はイエスの誕生、特に父であったヨセフにスポットが当たっています。
父ヨセフは「正しい人」であったと記されています。実はこれは結構大事なことで、この時代にわざわざ「正しい」と書かれているということは、きちんと律法を守ろうと考えていて、その通り実践することができていたということだからです。実際貧しい人たちの間で、律法というのは「守ろうとしても守ることができないもの」として存在していたわけですから、ヨセフが「正しく」あったというのは実にすごいことであったわけです。
さて、そのヨセフはマリアのことで逡巡することになるわけです。それは、マリアが結婚前に妊娠いるらしいということがわかったからで、しかも自分には心当たりがないわけです。だから、「表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」のですね。しかしそこに現れたのが主の天使です。ヨセフに対して「マリアを妻に迎えるように」と命じます。ヨセフに対して、今まで維持してきた「正しさ」を曲げるように諭すわけです。一方で天使は「別の理由」をヨセフに告げます。すなわち「マリアに宿った子どもは聖霊の働きによるのであり、神の子である」「だからそれを優先するほうが正しい」ということです。「あなたは「正しい」ままです」ということを伝えているのですね。「正しさ」から「正しさを越えた正しさ」への飛躍がそこにはあるのです。
夢の中での出来事と書かれていますが、普通、こんなことがあったら迷いませんか。どうしたって、疑いや迷いが出てきたしまうものだと思います。ヨセフも実際は大いに迷ったのではないかと思うのです。そして、いくら主の天使のお告げであっても、信用できないと思ったり、断るという選択をしてもいいと思うのです。しかしヨセフはマリアを迎え入れることを選び、イエスは無事に誕生することになりました。
「正しさ」というのは、とても大切なものです。しかし一方で、人間同士の関係の難しさは、その「正しさ」が衝突してしまうことにあります。自分にとってそれが正しくても、相手にとってそうとは限らないからです。「唯一絶対の正しさ」というものは存在しないとわたしは思っています。もしそれがあるとするなら、それこそが「神さま」だからです。
ヨセフはイエスの誕生の際にとても重要な役割を果たしています。それはもちろん、ベツレヘムに向かって旅をする間、母マリアを守り、誕生してからは成長するまで見守ることであったわけです。しかしもう一つ大事なのは、ここでマリアを迎え入れる決断をしたことです。ヨセフがもし、自分の律法的な正しさにこだわってマリアを離縁していたとしたら、クリスマスの物語はもっと違ったものになっていたでしょう。ベツレヘムへの旅も、馬小屋での誕生も、すべてヨセフあってのことなのだと思います。ヨセフが「正しさを越える」という決断をしなければ、今の教会は無かったかもしれません。だからこそ、教会は時にその「正しさ」を越えていくことができなくてはならないのだと思います。繰り返して言いますが、律法によればマリアは離縁されていたはずです。しかしヨセフがその「正しさ」を越えて新しい正しさを見出したことから、教会は始まっているのです。わたしたちがこの釧路で宣教するのにあたって、自分たちの持つ今までの「正しさ」をどこかで越えて、新しい正しさを見出していくことが必要になってくるでしょう。でも、そこで恐れることはありません。その時は神さまが、ヨセフにお告げをしたように教えてくれるはずです。主に導かれて、これからも神さまと共に、正しさを越えて進んでいきたいと願っています。