洗礼という出発点
ルカによる福音書 3章15~16,21~22節
今日は顕現後第1主日。そして「主イエス洗礼の日」と名付けられた主日です。「顕現」は、何重にも意味のある言葉で、一つは「イエス誕生の際に明るい星が現れた」ということです。当方の博士や羊飼いが目印にした星ですね。そしてもう一つが「イエスが神の子として人々の前に現れた」ということです。イエスが洗礼を受ける際に聖霊が鳩のように降り、周囲にいた人々にもイエスが神の子だとわかった、ということです。どちらもイエスのことが周囲に公に現わされたということであり、「公現祭」ということもあります。顕現日は1月6日の固定祝日で、なかなか主日になることはありませんが、教会の暦の中ではクリスマスやイースター、聖霊降臨日に続いて大切にされるべき日でもあります。そこで第1主日に「イエスの洗礼」という顕現節の大切な意味を覚えることになっています。福音書はルカからイエスの洗礼についての箇所が読まれました。イエスがほかの人々と一緒に洗礼を受けて祈っているところに聖霊が鳩のように降り、神の声が聞こえてきます。
「顕現」の言葉が示す通り、イエスの「公生涯」と呼ばれる時期は洗礼から始まります。人々に自分を示し「救い主」として活動し始めるのです。しかも、その「公生涯」は順風満帆だったわけではありません。時に失敗もしながらイエスは「公生涯」を十字架に向かって進んでいきました。「十字架」の出来事は普通の人間として考えたら「大失敗」です。いくら自分が「救い主」であるとはいえ、「取り除けてください」と口に出すくらいには大変だったはずです。そういった一連の出来事を乗り越えながら、確かにイエスは人間としての生涯を生き抜いたのです。
「洗礼を受ける」ということが時々「ゴール」かのように考えられることがあります。「キリスト者」であることが「完成された人格を持つ素晴らしい人」のように言われることもあります。「洗礼」を受ければ「自分の人生が劇的に変わるのではないか」という期待感を聞いたこともあります。そう考えていると洗礼を受けたことで、それまでの熱量が嘘のように燃え尽きてしまうことがあります。しかし「洗礼」は「ゴール」ではなく「出発点」です。なぜならキリスト者としての成長は「洗礼」の時に始まるからです。イエスも「洗礼」を出発点として「救い主」としての歩みを始めたからです。「洗礼」という礼拝の式一つで、それまでと人が変わったようになるのだとしたら、「洗礼」というのは何か「魔術的なもの」になってしまっていると言わざるを得なくなってしまいます。でもそうではありません。「洗礼」というのはあくまで、神さまのほうを向く生き方の出発点です。神さまのほうに向いて歩みだすときは、あくまでわたしたちが「変化する」入り口に過ぎないのです。そして「神さまのほうを向く生き方」は、思った以上に大変なものです。人一人の力で簡単に進むことができるわけではありません。「いつもよろこんでいなさい」とパウロが勧めているように、簡単にいけばよいのですが、多くの人は洗礼を受けたことによる困難が現れるとひるんで、簡単に道をそれてしまいます。それは別に悪いことではありません。誰もがそうなってしまうからです。だからこそ「それてしまっても、何度でも戻ってくればよい」と、教会では考えています。いろいろな人がいろいろな逸れ方をします。どんなことが起こっても不思議ではありません。でも「洗礼を受けたのだから」「できるはず。できて当たり前」と考えると苦しくなりますが、「洗礼を受けたことによって」「神さまがいつも助けてくれるはず」と考えれば、少しだけ心が軽くなります。
洗礼はわたしたちのスタート地点です。いつでも横を歩いてくれるイエスさまと一緒に、聖霊の助けを受けながら、神に向かって歩む生き方をこれからも続けていきましょう。