災難は天罰ではない
ルカによる福音書 13章1~9節
大斎節も第3主日に入ります。福音書からはイエスが「悔い改めなければ滅びる」と「実がならないいちじくのたとえ」が読まれます。イエスのところにピラトの行為について言ってくるものがいますが、イエスはシロアムの塔の話も交えながら、災難に遭ったのは罪人だったから、という考えを否定します。そしてみんなが神さまのほうに向きなおらなければならないのだ、と説き聞かせるのです。続いていちじくの木のたとえを話します。
災害や事件が起きると「これは天罰なのですか」と聞かれることがあります。「被害にあった人は悪い人だから仕方がない」と聞きたいのかもしれません。「健康や幸福は神の祝福」「失敗や損害は神の罰」と考えることはよくあります。別の箇所で、イエスの弟子たちも目の見えない人を見て「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と聞いています。なるほど、そのように見えることはよくあります。だからこそ人々はイエスのところにこれは「神の罰」なのかしかしイエスはその宣教の初めから一貫して、貧しい者や体の不自由な者たちに対する祝福を説いてきました。これによって「人の経済的・社会的・身体的な状態が、常にその人の霊的な状態を表す」という考え方を否定してきたのです。そして、確かに良く世の中を見回してみれば「悪人が栄え、良い人が苦しむ」という現実も見えてきます。本当に神さまはいるのかと疑ってしまいたくなることもあります。
「いけにえにガリラヤ人の血を混ぜた」「シロアムの塔が倒れた」という出来事が何を意味しているかはわかりませんが、「災難は天罰なのではない」とイエスは人々に言い聞かせます。なぜなら、その原因を神に問うことによって、大事なことが抜け落ちてしまうからです。それは「すべての人が神さまのほうに向きなおって生きる者である」ということです。それに成功した者が上昇し、失敗した者が転落していくのが神の国ではないのだということです。そうでないと、毎日の生活を例えばポイント制、朝お祈りしたら1ポイント、人に何かあげたら1ポイント、などとなって、毎日10ポイント上げないと天罰が下る、というようなものになってしまいかねません。最終的にそれが行きつくのは贖宥状(いわゆる免罪符)だったりするわけです。良いことを積み重ねていくのならまだ良いのですが、悪かったこと(と自分が思うこと)を振り返って反省し続けることで、わたしたちはどんどん苦しくなってしまいます。そうではなくて、自分の生き方を神さまのほうを向けるようにしてみることです。難しいけれども「向けよう」とすることが大切です。残念ながら悪い結果が出てしまうこともあるのですが、神さまのほうを向こうとし続ける限り、わたしたちは大丈夫です。
「実のならないいちじくのたとえ」はこのことを補強するものです。「切り倒してしまえ」というのは「もう世界の終わりにしよう」という提案ですが、園丁は「肥しをやってみます」と答えています。預言者のとりなしによって神さまが天罰を下すのを控えるという話は、旧約聖書にいくつもありますし、悔い改めたのを見て神が裁きを控えることもあります。「神さまは多くの人を救うために、裁きの日を伸ばしている。だからみんな、今こそ神さまのほうに向きなおろう。」とイエスはこのたとえで呼びかけているのです。
「神さまのほうに向く」生活はちょっと大変なような気がします。でも、そのために神さまはわたしたちにイエスさまと聖霊を遣わしてくれています。「神の助け」によって「神のほうを向く」ように生きることを大切にしていきましょう。