独占禁止
マタイによる福音書 21章33~39節
本日の福音書は「ぶどう園と農夫」のたとえ。これも有名なお話ですね。ぶどう園を作った主人が、収穫を受け取ろうと僕たちを農夫のところへ送りますが、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと僕たちはおろか、跡取り息子まで殺してしまう、というたとえ話。「家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった」とイエスは聖書を引用してまとめています。
このたとえ話、「世界」というぶどう園で普段働いている「農夫たち」=律法学者やファリサイ派の人々が、遣わされた「僕」=「預言者たち」を追い出し、「跡取り息子」=「イエス」をも殺そうとしている、と読み取ることができます。律法学者やファリサイ派の人々はそれをわかって、憤ったわけですね。
ものごとの「管理」をしていると、時々「自分が主人」になってしまうことがあります。例えば会社などで、自分が預かっているものをしまい込んでしまって人に渡さない、ということがありえます。プロジェクトなどでも他人に任せずに抱え込んでしまうことが起こります。教会でもあります。牧師が神より偉くなってしまう教会がありますし、教会委員に選ばれたとたんに教会の様々なことを自分の思い通りにしたり、教会に来る人を選んでしまう人がいます。あくまでそこで「働いているだけである」「管理しているだけである」ということは、意外と忘れてしまうものです。
「わたしたちは被造物である」という言い方を教会でします。これは「天地創造」から来ていることですが、どうも「天地創造」と言うと「信じがたい」と思ってしまう人がいるのが残念です。なぜなら「天地創造」は、事の真偽はともかくとして、「わたしたちはみな等しく被造物である」ということ、そして「わたしたちは神から管理を任されて」「この世界で働いているだけ」ということを忘れないために教えられるものだからです。わたしたちは「被造物」として、神の創造されたこの世界で生き、働いているのです。そこに「誰が偉い」ということはないのです。「ぶどう園」というこの世界で、わたしたちは「農夫たち」として働いているのです。ではそこにもし「僕たち」や「跡取り息子」が来たらどうするのか、ということをこのたとえ話は問うているのです。
「管理する」という言葉は、ちょっと幅のある言葉です。「ものすごくシステマチックに一から十まで自分が決めて、その通りにさせる」という管理の仕方もあれば、「現場に任せて時々様子を見に行き、あるいは報告させる」というやり方もあるでしょう。「方向性を時々確認する」くらいの場合もあれば「全部きっちり方針を示す」やり方もあるでしょう。それぞれのやり方にはそれぞれのよさと悪さがあって、一概に「何がいい」と言えるわけではありませんが、人間の社会の場合、一から十まで全部決めようとすると、管理する方が疲弊するというのが普通だと思います。この「ぶどう畑」のたとえの場合、主人はぶどう園を作って、それを農夫たちに任せています。「収穫をあげる」という方針は示しているものの、やり方はほとんど任せているでしょう。そこに僕や跡取り息子を送って報告を聞く、こんな感じで進めているのではないでしょうか。神は、わたしたちという「農夫」にこの世界を任せているのです。だからこそ、わたしたちは「農夫」として、「主人」である神が、ここでどんなことを実現したいのかということに心を向ける必要があります。そうでないといつの間にか、「僕」や「跡取り息子」を追い出し、あるいは殺してしまうのではないかと思うのです。
わたしたちは神のぶどう園で働く農夫として、神さまがこの世界でどんなことを実現しようとしているのか、どのように周囲の人と関わるのか、今一度考えていきたいと思います。