畑を耕す
マタイによる福音書 13章1~9,18~23節
今週の福音書は「種を蒔く人のたとえ」。道端、石だらけの場所、茨の上、良い土地、などなど様々な場所に種が落ちますが、芽が出たり出なかったり、様々な道をたどります。福音の種はあちこちに蒔かれますが、収穫にまで至る種は必ずしも多くないとイエスは捉えています。
「種を蒔くと芽が出る」とわたしたちは単純に捉えてしまいがちですが、すこしでも家庭菜園などをしたことがあれば、そんなに単純なものでないことはすぐにわかります。全部の種から芽が必ず出るというわけではありません。種を買ってくると、下の方に小さく「発芽率80%」とか書いてあって、品種によっては40%というものもあります。蒔き方や気温などの蒔く時期によっても変わります。蒔く時の穴の深さや、土のかけ方によって全然違いますし、気候についてはこの年にはうまくいったと思っていたのに、次の年になるとダメなことがあって本当にわけがわかりません。また鳥などの動物がほじくり返してしまうこともあります。ちょっと外に置いておいた一瞬の隙にやられてしまうこともあります。安定して「芽を出す」ためには、色々考える要素がたくさんあり、しかも運任せにしかできない部分もあり、ままならないものだと痛感します。
自分の畑であれば、わたしたちはしっかり準備をします。きちんと耕して肥料を入れ、石や雑草を取り除き、地温を上げるためにマルチをして芽が出やすい環境を整えます。わたしたちに蒔かれた福音の種も、きちんと芽を出してくれることでしょう。だからこその今があります。
しかし、その辺にただただばら撒くのなら、そう簡単にはいきません。当然石畳があり、道路はアスファルトで覆われ、雑草がはびこる場所もあります。大きな木の陰なら暗いでしょうし、そういった場所だとなかなか芽が出ないですよね。いつも福音の種を受け入れるようによく耕された心の畑を持っている人はそう多くはないように思えます。でも、普通、種を蒔くならただばら蒔くような蒔き方はしないですよね。そこに何か植えようと思ったら、最低限雑草は取り除いて、土を軽く耕して、ちょっと肥料を入れたりしますし、時々見回って手入れをします。実は種を蒔く時は、蒔く前の準備、蒔いてからの手入れも重要だと思うのです。
宣教とは種を蒔くようなことだとよく言われます。今日の福音書の箇所はよくそう言う時に使われます。芽が出ないこともあるから蒔き続けることが大事だとよく言われます。もちろんその側面もありますが、一方で種を蒔く前になぜ耕さないのかと思うこともあります。「キリスト教なんて嫌いだ!」という人に種を蒔き続けても、かえって嫌いになってしまうだけです。まずキリスト教自体に興味を持ってもらわなくては芽すら出ないのだと思います。だからこそまず、教会が立っている地域の中にあることを大事にしていくことです。地域という畑を耕すのです。いや、畑にしていくのです。そして、そこに集うわたしたち自身が「喜んで」教会に足を運び、楽しそうにしている必要があります。そのためにも「手入れ」が必要です。生えてしまった雑草を取り除き、石を取り除いて、福音の種が根をしっかりはれるように、大きく枝を伸ばせるようにすることが大切です。「手入れ」の方法は一つではありませんが、大切なのは古来より「祈り」「聖書に聞き」「黙想する」ことです。そこでイエスに倣うようにすることで、わたしたちの心の畑の状態はどんどん良くなっていきます。疑問に思うことはどんどん牧師にぶつけたらよいのだと思います。答えられないこともありますが、問題を出していただける方がわたしは嬉しいです。わたしたちの畑が良くなれば、教会もおのずと外に向かって開かれていくでしょう。心の畑を耕しながら、み言葉の芽を大きく育てていきましょう。