疑い迷って
ヨハネによる福音書 20章19~31節
イースターから1週間が過ぎ、復活節第2主日。本日の福音書はヨハネによる福音書から、閉じこもる弟子たちに現れるイエスとトマスの迷いが読まれます。イエスが十字架につけられたことで、自分たちも捕まるのではないかという恐れにとらわれて鍵をかけて閉じこもる弟子たちのところにイエスがやってきて「あなた方に平和があるように」と告げます。そしてその次の週、その場にいなかったトマスがイエスの復活を疑うのですが、そこに再びイエスが現れたところトマスも信じた、というお話です。毎年必ず復活節第2主日にはこの話が読まれることになっています。
このお話のなかでいくつかのポイントがありますが、わたしがこの主日に大切だと思っていることは「トマスが疑った」ことです。「復活」というのはそもそも普通に考えれば信じがたいことですよね。例えばわたしが「昨日死んで復活したんです」といっても誰も信じないですよね。そもそも信じちゃいけませんよ。キリスト教を伝えるのに「これだけは信じられない」といわれることも多いものです。でも、キリスト教の信仰において「復活」が中心になっている以上、避けて通れないものです。キリスト教信仰の中心は「クリスマス」というイエスの誕生ではなくて、「イースター」というイエスの復活であることは忘れないでいたいものです。それはさておき、イエスの復活という衝撃的な話の次に、「トマスが疑う」という人間的に大事な話を置いてくれているというのが大事なんです。
「信じろ」と言っても、なかなか難しいことであるのははっきりしています。わたしだって「生物学的に生き返った」といわれると、う~んとうなってしまうでしょう。でも、このトマスだけでなく、イエスが昇天するに際しても「疑う者もいた」と聖書に書かれています。「疑いながらも」イエスに従っていた人たちがいたということは、なかなか信じることができない不心得者にとって心強いですよね。「それでもいいんだよ。わたしについておいで」というイエスからもメッセージです。だからこそこの個所が、復活から1週間後に必ず読まれるのではないかと思います。特に最初期のキリスト教では、洗礼式は復活日にしかありませんでした。その日に洗礼を受けて、まだまだ迷いながら過ごしている人たちへの大切なメッセージであると同時に、「疑う」心を持ちながら長年過ごしているキリスト者への慰めでもあるのです。
もし「疑う」ことが一切許されないのなら、聖書にこんな話は残されていないはずです。もしくは疑ったトマスは天罰でその場で塩の柱になるか、倒れて死んでしまうかしていたことでしょう。でもそうはなっていません。「疑った」ということすら許されないのではなく、「疑いながら」「迷いながら」イエスについていくことが大切にされているから、このお話が残っているのです。伝承によればトマスはこの後、インドまで宣教に出向いたとされていますが、そこまで6500kmほどあります。その距離を踏破できるくらい、疑いのトマスはイエスの教えを伝えることを大切にしていたのです。
わたしたちもまた、トマスと同じにはできないかもしれませんが、疑いながらもイエスに従う道を見出していきたいものです。そして、疑いながらも迷いながらも、イエスに倣って、イエスのことを伝える生活を送るように努めていきたいものです。「うたがってもいいんだよ、わたしについておいで」というイエスの声を聴きながら、明日へ向かって歩みだしていきましょう。