病や患いを癒す力
マタイによる福音書9章35節~10章8節
今日の福音書はマタイによる福音書からイエスが群衆を憐れんで癒しのわざを行い、12人の使徒たちを選ぶ場面が読まれます。イエスは「ありとあらゆる病気や患いを癒された」と記されています。また、選んだ12人の使徒たちに対しても「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すため」の権能を授けるのです。
イエスの時代、病気や患いは「汚れた霊」によって引き起こされると考えられていました。もしくは「罪の報い」としての病気です。ですからイエスが弟子たちに授けた権能はとても大きなものであったと言うことができますし、イエス自身もその「霊」に干渉できる大きな力を持っていました。
「病気や患いを癒す」というのはイエスの活動の中心でした。なぜなら、当時の医学は先ほど言った通り「霊」が原因だと考えていたものですから、今の医療とは比べ物になりませんし、その上高額であり、基本的にかなり身分の高い人たちにしか受けられないものでした。それをイエスは貧しい人たちに行っていた。しかも「あらゆる病気や患い」を癒したのです。現代の医療的に「治った」のかどうかはさておき、少なくとも患者たちは皆元気になったのです。群衆は「羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれていた」と聖書に記されているのですが、それだけ「貧しさ」と「行き詰まり」のようなものが蔓延していたのでしょう。その人々を、少なくとも「生きていこう」という思いをもって立ち上がることができるようにしてくれたのがイエスだったということです。
イエスは弟子たちを派遣するときにいろいろ注意事項を伝えるのですが、その最後に「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言っています。これがイエスの活動の基本的な考え方です。イエスにとって自分の力(あらゆる病気や患いを癒す力)は「神がわたしに与えたもの」であり、それは「ただで受けた」ものです。だからこそのその力は周囲の人々に「ただで与える」ことが神の栄光を現すことになるわけです。この姿勢はわたしたちキリスト者の基本姿勢となってくるのです。
「与える」というと、「自分を削って与える」と考えてしまいがちですが、そうではありません。イエスが言った時、弟子たちはすでに「すべての霊に対する権能」を「受けて」います。その「権能」は、使徒たちが何か対価を払ったから与えられたものではありません。ただ「イエスが選んだ」ということだけです。つまり弟子たちにとっては「ただで受けた」ものなのです。ここで大切なのは、これは「わたしたちも同じ」だということです。洗礼を受けるということは「イエスから選ばれた」ということです。わたしたちには、わたしたちは気が付かなくても洗礼を受けたことで「イエスからの権能」が与えられているのです。「でも本当に?」と思ってしまいますよね。だってそんなに「すべての病気や患いを癒す」ことなんてできないような気がします。でも、そうではないのです。現代医学的に考えるとおかしくなってしまいますが、そうではなくて、わたしたちにできるのはイエスと同じです。打ちひしがれている人たちのところへ行き、彼らを迎え入れるということ。話して、罪の赦しを宣言すること、福音(良い知らせ)をもたらすということです。そしてその人が「元気になる」ということ、再び立ち上がって「生きていこう」と考えるようになることです。自分の周囲の人たちに対してそれを与えるということです。こうやって人と関わる力は、わたしたちが「ただで受けた」ものです。だからこそそれを「ただで与える」のです。そしてなかなかできないときは、弟子たちのように、イエスに出会ってその力をチャージするのです。